春、街なかを歩き回る。ただそれだけのことで、思った以上にたくさんの桜を見つけることができるでしょう。それは公園や学校であったり、個人の庭であったり、ところによっては見事な並木が見られることもあります。咲く花もまたいろいろで、それぞれがそれぞれの趣を持っています。これだけ多く、桜が街のあちこちに植えられているということは、とりもなおさず日本人がこの花を愛していることを明らかにしています。
僕も、桜を愛していることでは同様です。儚げに咲き、いさぎよく散るからか? そういうわけもあるのでしょう。ですが僕にとっては、われわれの共有する美的感傷のためよりも、昔の知人が花を愛していたということが、より大きな理由となっています。
彼女は、西洋の花らしい花よりも、日本的な花を好んでいました。目立つ花よりも目立たない花、路傍に咲く野草や雑草に近いものが好きだといっていました。花探しと称して延々歩く彼女を追って僕は、衆目の集まるところを避けて、目立たず日常の中にこそ咲く花を見て回りました。その季節、その折々に咲く花がその時々のテーマで、春のこの時期には桜を探すのが常でした。
春の花探しは、住宅地に花を探し、鉄道の線路沿いに探し、学校の花を遠くに見ながら、最後に池の端にある桜の並木を歩く。歩くたびに順路を少しずつ変えながら、でも毎回必ず通る花もあって、きっと彼女はその花をこそ愛していたのでしょう。
花探しの最中、彼女はいつも決まって無口で、花を眺めるふうでもなく、ただただ通過するわずかなあいだに、無造作に空中に投げ出した視野に、ありったけの花々の影を囲いました。僕は花の下に彼女を見て、彼女のいう美を思いつつ、わずかばかりの怖れも抱いていたのでした。
見れば彼女を思いだすのはどの花であっても同じですが、桜となるとなおさら。幼稚園前の見事な桜並木を通れば今も、花とともに彼女に見た怖れが兆す春です。