僕には友人がひとりあって、それがまたおそろしく美しい女である。その友人は、一頃紛れもなく看板娘であった。看板娘といっても商店飲食店の類いのそれではなく、博物館に勤めていた。見学者を案内したり、ミュージアムショップに立ったりが、お客に顔を合わせる主だった機会である。そんなお得意なんてのができそうにない仕事ながら、看板娘であったというところに、友人の美貌が伺い知れないか。その友人が僕にもらしたところによると、看板娘というのもなかなか大変らしい。しなくてもいい気苦労があったと、こっそり教えてくれたのだった。
交通の便がいい立地ではない、何度も見て楽しいというものでもない。そんな小さな博物館に、通い詰める客があるのだという。すっかり展示品には精通している、説明なんてまるで必要ないはずだのに、それでも説明を受けている。説明を受けることそのものが楽しみになっているとみえる。説明が終われば決まって、今日の出来はどうだった、いつもとちょっと違ったね、など講評をたれる。顔では笑って、はいはい聞いていたが、たまらなく嫌だったといっていた。なら、ミュージアムショップならば安全かといえばそうではない。カウンターで長々と話す、土産持参、極め付けは、友人が手渡したばかりの商品を、プレゼントと称して贈られそうになったことだろう。さすがにそれは固辞したという。そんなものもらってどこが嬉しいか。別なものでも困るというのに、あれは本当にどうしようもなかった。仕事だから愛想よくもするが、職分を超える過剰な期待、勘違いは勘弁して欲しい。それが一看板娘としての言い分であった。
こんなことを聞かされているものだから、僕は決して看板娘には近付こうと思わない。向こうは従業員、こちらは客。その枠組みを越えようとするとき、お互いの不幸が始まる。もとより看板は遠くで眺めるもの。所詮笑顔も売り物と心得る次第、悲しき次第である。