職場へ向かう道すがら、左手に見やった寺の紅葉があまりに見事で、知人友人集まっての紅葉撮影がもう去年かと、一向地に足のつかない時間の経ち方に腹を立てた。今年の紅葉は、夏が長くそれでいて急に冷え込んだため、ことさら色づきがよいと聞く。だというのに、紅葉は心にはまるで響かず、むしろ過ぎた一年が自分になにも残さなかったことに嫌気ばかりさして、身に染みるのは寒さばかり。縮こまりうつむいて、路側帯を区切る白線を見ながら進んでいくと、赤黒く液体が流れた後が斜めに横切っていた。
グレープジュースでもこぼれたのだろうと思ったその時、視界の端に猫が入った。通りすぎざまに振り返れば、茶の猫が傷口から体内を見せている。車道寄りに倒れていた、このままでは車に踏まれてしまうと思ったのは、通りすぎて随分が経ってから。せめて路肩、薮の辺りに寄せてやればよかったと思いながら、キリスト者でもないのに十字を切って、もし猫の神様がいるならどうかお願いしますと、口の中で簡単に祈ってわずかに黙祷。果たしてこれは偽善だろうか、自問自答することで猫のことは振り払ってしまった。
交通量が特に多いわけではないが、決して少なくもなく、飛ばし気味に車が通ってゆく危険な道だ。轢かれて動物が死んでいることもまれではない。ただ今回は烏の姿を見なかった。寒さに烏も巣籠りなのだろう。できれば外に出たくない季節。僕の場合は一年中がそうなのだが。
仕事が終わっての帰り道。猫はどうなったのかと、朝の道をたどっていた。誰か親切な人が路肩に寄せておいてくれたろうか、それともまだ同じ場所にいるだろうか。うろ覚えの現場に近付くにつれて、吐き気が込み上げてきた。こんなことは珍しい、死体なぞ大したことはないのにと、自分の状態にうろたえながら現場に着くと、そこには幾度も通りすぎた車輪がなめした端切れみたいな皮、――傍には染みがあった。来週には消えるだろう。