古来、世を捨てんとするものは北を志向してきた。何故だかは分からない。すべての死んだ魂は、浄土を目指し西へ向かおうとするものの、コリオリの力に導かれ、結果北へと運ばれてゆく。世捨て人の心も、それに変わらないのかも知れない。ならば、我が漂泊する魂も、北へ、北へと流れてゆくのだろう。北は流浪する悲しき身のたどりつく、最果ての終着点なのである。
北へ。私は今日、北へと向かう。何故北なのかは分からない。北になにかがあるというわけでもなく、冬の寒さに凍える北を心が求めてならない――そういうわけでもないのに、私は北へ向けて出発する。あるピアニストがいっていた、北はわたしを惹きつけてやみません――。北の孤独は、人を哲学者に変える。その土地の厳しい環境を憎みつつ、だが決して北から離れることができない人々は、ほとんどこの地方の、平和な環境の一部になり切ってしまう。人は孤独のなかに生き、孤独の中で自分自身と向きあい、北と密接につながり、北に心から感動する。そこで人は詩人であるのだ。
私の求めるものはその孤独であるかも知れない。俗世からの離脱、その度合いを、緯度の高さによって測ろうとする私は、グールド主義者として、北を孤独の隠喩として捉え、日常を振り捨てた先にあるかも知れない、私自身をつかまえることのできる境涯へと旅立とうとしている。日常の悲哀、空しさを置き去りに、北の理念が働きかけ、自身を陶冶するだろう地に立たんと欲している。北にこそ私の求める――否、人寂しい私は、日本のどこかに私を待ってる人のいることを期待しているのかも知れない。私を待たぬとも、鮮烈な印象をともに現れる、不幸に圧しつけられながら、その不幸に打ち勝とうとしている不仕合な女に出会うことを、心の底に望んでいるかも知れない。その女は自然天然に常住芝居を、――いや、出会うのはきっと孤独だろう。それはいたるところわたしの後をついてくる。