日本の携帯電話普及率はおよそ60パーセントである。若者の世代にはほとんど必需品であり、持っていないものを探すほうが難しい。携帯は彼らにとっての会話の手段、いやむしろe-mail端末というべきだろう。携帯を使う若者は簡単に見ることができる、街角に、駅に、車内に、学校に、授業中の教室に、家庭に、部屋に、居間そして食卓に。あなたと会話するあるいは夕食をともにしている誰かが、携帯を手に第三者にメールを書いているかもしれない。
彼らのメールの内容は稀薄で濃密だ。挨拶程度の数語で構成されるものから、しばしば充分な文字数のものまで。短くそして長いメールは途切れなく交互に、複数の相手に放射状に、送受信される。あたかも彼らの時間すべてを埋め尽くそうとするかのように、メールはやり取りされる。
識者によれば、これは関係を確認するための行動だという。稀薄な人間関係の中で安心できない彼らは、自身を落ち着かせるためにメールボックスを開ける。彼らは人間関係の密度を届いたメールの数ではかり、故に彼らは自分の番でメールを止めることができない。彼らは質と量を取り違えている。要するに、したり顔の年寄りたちは単に彼らを批判したいのだ。
若い世代は、夢のような生の中ではっきりした現実感を得ることなく、常に孤独を隣に感じている。彼らは確信できる人間関係のなかを漂い、故に途切れなくその証拠を要求する。誰かに繋がっている間、確かな自分を自覚している。すべての動因は、誰もが持つ悲しみである。
そして私もまた、彼らと同じ悲しみを持っている。しかし私は携帯電話を持とうとはしなかった。すこぶる便利と人はいうが、電話をかけてくるものなどいないと応える私に、持てばかかってくるさとまたいう。もし携帯を持てば、いつも電話を受けねばならない。私は自分の時間を邪魔されることを好まず、それゆえ私は彼らにそのための手段を与えなかった。私の時間は私だけのものであり、私は誰かとおしゃべりしたりメールかわしたりで過ごそうとは思わない。
私は悲しみを打ち消すために本を読むだろう。多くの感情が本にはあり、私は私のものと同じ不安を見つけるだろう。読むことは私たちに、異なる世界、異なる時代に私たちが同じ不安を持っていたと気付かせる。私たちは常に孤独そして自らへの疑いとともにあり続け、故に人はひとりではない。孤独を通じて誰かの哀しい魂と結びついている。携帯電話の世代はそれを彼らと同じ時代に生きる人間に求め、私はすでに死んだものが発した言葉にそれを求めた。両者に違いはないのである。
私が行間に遊ぶ間、死せる言葉は息を吹き返し私に呼びかけるだろう。私は死せる言葉への答えを持つだろうか。いや、私は答えなければならない。もし私が答えを持ちえたとして、はたして偉大な死者たちはそれを受け容れるのだろうか。そして死せる言葉となった私の話し掛けを見つける誰かはいるだろうか。
(初出:Voici ce que je pense...,オリジナル:フランス語)