人形は老人の手の中でぐったりとしているように見えた。美しいビスクドール。着せられた衣装の白がところどころ黄ばんでしまって、かなりの時間を経てきたものと知れる。だが肌のバラ色、髪の豊かさは、まったく古さを感じさせなかった。顔をよく見ようと視線を落とすと、不意に人形の頭が回り、目と目が合った。
思わず顔を上げてしまった。老人が語る。本来は当家の所蔵ではなかった、由来来歴の知れないままにこの館に伝えられている。それを預けるという。なぜと無言に問うわたしに、老人は人形を差し出した。人形を受け取ると、彼女にはほのかに体温があった。老人の体温が残ったわけではない。紛れもない彼女自身の体温。そしてこのやり取りの間、彼女はわたしをじっと見詰め続けていたのだった。
ここではヴィオレッタと名付けておこう。本当の名前は忘れてしまった。ミステリープレイスガイドブックを見ると、失われた謎として、ページの片隅の囲いに触れられていたのが彼女であった。ガイドブックの出版された時点で、すでに伝説のうちに入っていた彼女。プロフィールの多くは謎であり、高貴の一族の滅亡とともに行方が分からなくなったという。彼女は、生ける人形であった。不運を招くとされていた。
自宅、アパートの一室で、一人でワープロに向かっているとき、彼女は盛んに話しかけてきたのだった。生い立ちは彼女自身の口から聞くことができた。生まれはイタリアではないらしい。贈り物として政治家の家に入り、まだ若かった次期当主にことさら愛されたと言っていた。いずれ独立した小国家を統べる運命にあった青年は、迫る重圧と毎日の厳しい日課から逃げるように、ヴィオレッタにのめり込んでいた。
「それはそれは愛されたわ」
しかし、それはままごとみたいなものだろうと反駁するわたしに、ヴィオレッタは、彼が彼女の初めての男だったと、気位にあふれた荘重さで言ってのけた。子供あつかいするなということらしいが、むしろその男は変態かと、その方面が気になってしまったわたしであった。
ヴィオレッタとわたしは、日々の暮らしのなかで次第に打ち解けていった。最初は話すだけだった彼女は、いつしか自分で起き上がれば、ものを食べるようにもなっていた。わたしの食べる朝食のレタスを、華奢な手にとって食べているのを見た。ぱりぱりと音を立て小さな口がレタスをかじり、開いた口元に整然と並んだ歯がのぞいていた。こうして食べられたものはどこへ行くのだろう。彼女の腹に触れるのは、おそろしかった。人のやわらかさ持っているかに思われた。どんどん人に近付いているように思えた。
ヴィオレッタと最初の愛人の末路は悲惨なものであった。年頃になった青年のもとに、政略の若い花嫁が嫁してきたのがすべての始まりである。今までヴィオレッタ一人に向けられていた青年の愛が、若く美しい花嫁に向けられたとき、ヴィオレッタの胸中は不穏に揺れた。青年の心変わりをヴィオレッタは許さず、自分が顧みられなくなったことに、自尊心の高い彼女は耐えることができなかった。ヴィオレッタは鬱屈した思いをすべて、青年に返した。統治者であった彼の一族は、反対勢力の襲撃を受け、館には火が掛けられた。郎党すべて捉えられ、青年も若き花嫁も全員が処刑された。名門の血筋は絶えた。
「わたしを愛さなくなった罰」さすがのヴィオレッタも、その時は沈んだ面持ちを見せた。やはりどこかで、ヴィオレッタも彼を愛していたのだろう。
アパートを、わたしの恋人が訊ねてきた。
「それが噂の生きてる人形?」屈託なく訊ねてくる彼女は、わたしの仕事のせいで、怪異の類いにはまったく動じなくなっていた。初対面の彼女に、ヴィオレッタを紹介する。その際、彼女の名――ヴィオレッタにわたしの姓を付けて紹介してやると、ヴィオレッタは嬉しそうに目を細め笑った。不敵だった。高慢な口振りに和やかさを装って歓談する中にも、ヴィオレッタのわたしの恋人を見る目には、妖しい光が宿っていた。