2003年11月の衆院選挙を終えて、大方の予想通りというべきか、民主が大きく票を伸ばし、自民は議席を減らした。これを評して野中広務氏曰く、マニフェストなる空虚な言葉に破れた、カタカナ語に実質を隠しての宣伝、有権者を愚弄している、国語の冒涜である云々。実はこれは私も同意見であって、民主党は言葉の新しさであたかもなにか新しいことをいおうとしていると見せて、戦略の上手で勝った。マスコミの後押しも大きかったろうが、それもマニフェストあってのものである。公約という空語を新たな空言で満たしたのは実に巧いさえたやり方であった。
さて私が野中氏に同意しようというのは言葉の戦略についてであった。また、それら戦略に代表される昨今の言語状況が、国語(私はもっぱら日本語といっているが、ここはあえて国語といおう)を尊重していないということ、それにも同意するのである。しかし国語の現状、これについては少なくとも昭和三十年以来政権党であり続けた自由民主党の大物であった氏がいってはならないものではあるまいか。
戦時戦後のどさくさに、国語の重要な要素である漢字の大半が消失した。読みが消えた、字形が消えた、伴い日本人の目からも字は消え、我々は過去に横たわる文字による遺産を手放すことになった。いずれ撤廃される予定の漢字だったが、漢字なしでは国語は読むに堪えず、千数百字が残った。だが中途半端なものに過ぎない。我々の国語はいまだ統制下にあり続けている。
愛国者、伝統尊重の徒を多く擁するかに見える自民党は、果たして国語になにをしえたのか。見るも無惨なまぜ書き、誤用、混用、宛字には理由も理屈もない。昭和三十年代、遅くも開始された国語破壊に対する抵抗は無視されたままで、時の政権以外に国語の堕落を止められるものはなかったはずであるのに――。
誰ぞ改革撤回を唱えはしないだろうか。あらば、そのものにこそ票を投じたいのであるが。