小学校の正門は商店街に向かって開いていたのだが、交通量が多くて危ないからなのか、裏門から登下校する決まりになっていた。その少し遠回りの通学路は競輪場沿いで、家は最寄りの駅方面。放課の黄昏時を、人生の黄昏に染まるおっさんらの流れにぞろぞろ紛れ込んで帰るのは日常だった。勝った者は酒場に吸い込まれていく。負けた者は酒屋の表、自販機前、ワンカップ片手にその日のレースの当たり外れ談義。おっさんらとの付き合い触れ合いはほとんどなかったが、結構嫌いではなかった。
いま私は、そんなおっさんらとはおそらく最も遠いところにいる。負ければ悔しい、こつこつ働くほうが身に付くものは沢山のはずと、どうにもなくせせこましい料簡。賭事もせず大酒くらうでもなく、日々をただ暮らしの内に流してゆくばかりだ。だが所詮流れてゆくものになにも残ろうはずはないのであって、博奕の金があぶくならこちらははした金。結局なにも残らぬというなら、博徒と小市民、どこに違いがあるというのか。
人生ゲームの最後には開拓地が用意されていて、一か八かの大博奕打って、一獲千金の大逆転を狙うのがお決まりのコースである。伸るか反るか。反ればすべてが溶けて消えるが、伸ったときのバックのでかさがすべて――。おっさんたちは毎日を、少なくともレース開催中は開拓地に生きていた。負けても負けても、次はきっと来ると信じる天性の前向きさで、読みが外れればからっけつ、この次までにはどうにか工面して、いくらへこもうとも沈もうとも決してくじけないタフ。彼らと小市民の違いはこの一点に極まる。
失うことを怖れれば人生はつまらなく褪せて、溜息つけば仕合せは逃げる。うつむけば自分の来た道に忘れてきたものが点々ちらついて見える。夕風に煽られて舞う外れ車券の帰り道――、私はまだ人生を欠片も生きていない。おっさんらのチカチカ瞬くような生を、今からでもつかむことはできるだろうか。