木版画を見る機会があった。京都の国際木版画協会の主催である。
展覧会を見に行こうと誘われたとき、きっと現代の版画であるから抽象が多いのだろうと勝手に当たりをつけて、抽象は少々食傷気味の私であるが版画というのもあまり見たことがない。興味がないわけでもない。すぐ行くと決めた。私にしては珍しい決断の早さである。
久しぶりに見る版画の山は、私の想像を上回っていた。端から抽象ばかりに違いないと決めつけた私の狭量さを意に介さず、会場には抽象もあり具象もあり、さまざまな表現のあり方がさまざまに展開されていたのである。
面白いのは具象である。あるものをあるままに写すだけでは不充分な時代である。そこに付け加えられるなにかがあって当然と思う私に、ただ淡々と写実された靴や猫というのが実に面白い。あまりの精細さに腐食銅版画かと思ったがこれは木版画協会の展覧会である。木版なのである。
木版といえば少々粗削りという印象はまるでない。思い返せば日本には世界最高峰の木版技術がかつてあった。浮世絵の技術は今再現することができないという。その浮世絵には、木版であることを疑わせるような表現があるではないか。それに近いものを思わせた。アートという語の第一義は技術である。疑いもなく木版画協会展覧会には大戦後一時失われたアートが見出された。刷りの表面にはうるさく主張することなく控えめに、しかし疑いもなく作品を支えるアートが見える。技術が表現を裏打ちするのである。
多種多様な作品にはもちろん抽象もあった。だがここに見た抽象はかつての猫も杓子も抽象という年代を通りすぎて、抽象であること自体を目的にしていない。意識の奥底や夢の片隅に見たことのあるような景色が刷り上げられているだけである。それゆえ鮮烈である。木版はいうまでもなく凸版である。版が紙表面に食い込んだ際に残される跡が鮮やかで活き活きと呼吸していた。そこにあることが自然であるということのすごさ。抽象の形態が無理することなくそこに落ち着いている。しかしそれらは常にせめぎあっているのであるから芸術はやはりただ事ではないのである。
日本画、浮世絵を思わせる表現があった。漫画に似た表現、ポスターアートを彷彿するものがあった。だが私がより好んだのは、やはり具象であった。枝に留まる鳥、舞い降りる猛禽の猛々しさ。昔このような表現を私たちは本の挿画に見ることがあった。本の持つ世界を侵食するほど表には出ず、だがその画には深い奥行きを子供たちは見るのである。想像力を掻き立てる絵の強さ、しかし押しつけがましさは皆無である。このような絵を私はこのところ見ていない。そして今日の機会は私にとても嬉しいものとなったのだった。
図版カバーが鳥の子紙に手刷りであった。私のは七百分の三百三十六。図版を持つ手に版の跡が心地よく、今日の機会を思い出すよい頼りになってくれそうな予感である。