地上の楽園

 羽束師の運転免許試験場に行ってきた。

 コンクリでできた建物が、高さに比べ敷地のだだっ広いせいで、やけに平べったく地面にはいつくばって見えた。表門をくぐって入り口までが、さすがに自動車に関する施設だ、広々とした車を送るスペースそして駐車場になっていて、入り口を一歩入ればそこはまだ昭和であった。

 時間に余裕をもって着いたので、窓口が開くのを文庫を手にじっと待っていた。さすが公安、時間通りである。人の流れに沿って自分の番になれば、お願いしますともろもろの書類を差し出すこちらに、返事も愛想もなくつっけんどんに指図が返ってくる。これが公安か。殴り書きのよな言いように感心しながら手続きを済ませてゆく。指示は極めて端的で事務的、だがフロア中央で案内する中年を超えたくらいの男だけは親切だった。とは言うもののそういう気の良さ人懐こさはあくまでその男個人に発するものである。公安は頑として無愛想を決め込んで、死んだようによどんだ空気を固着させている。

 売店を見れば、電報電話と書かれた赤看板。そこにはダイヤル式とあるがダイヤルの電話機なぞ置かれていない。プッシュ式どころか個人が電話を持ち歩く時代に、塗装の跡も真新しく見える看板は電電公社のものではないか。公安は戦後、昭和三四十年代の趣を保存しながら、生きながらにじっとたたずんでいるとはっきり知れた。

 子供の頃、母に連れられていった郵便局がこんなだった。殺風景なコンクリの建物、たまたま気のいいのがいてもその美徳は当人ひとりにとどまり、局はあくまで機械的に事務をこなすばかり。だが時代の流れが風を送りこんな光景はもう失われたと思っていたが浅はかだった。公安はいまだに昭和高度経済成長期である。

 建物が昭和なら、係員もまた昭和であった。総じて生気がなく気だるそうな無表情が人をぎょっとさせる。彼らもここを出れば一市民として平成二十一世紀の風に触れるだろうのに、その様を想像することすら難しい。建物もろとも封じ込まれたような彼らの古くささは安逸な平和の上に作り上げられたことは疑いようもなく、そうここは地上の楽園なのだ。波風なく同じことが同じように繰り返すのだろう毎日に鈍磨されて、精神は崇高さを失い制度組織に組み込まれるままにある。追われることのないというのはこういうことか――。

 屋内から実技試験場を見れば走っている車はもちろん現在のものである。廊下トイレの手すりや段差のスロープなどバリアフリーの導入も進んでいる。合否を知らせる電光掲示板はもちろん高度成長のそれではない。でありながら、なぜこんなにもここは時間の流れからかけ離れて見えるのだろう。しびれた。ワンダーランドである。歴史の生き証人であると同時に、いまだ風化しない記念物であった。

 自分はどうぞ楽園の外へ帰ろう。ただここだけは、壁に走るひびの合間に、倒壊するその日まで変わらず凍えていればいい。


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公開日:2003.04.22
最終更新日:2003.04.22
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