今日、はじめて北の新地で飲んだ。もちろん人に連れられてである。
一見普通の、うらさびれたマンション風の二階であったが、扉を開ければそこはカウンターと壁にそってL字に配置されたテーブルがある、小さな一間である。このような店をなんというのか私は知らない。女性が四名ほどいて、七人連れの我々の間あいだに挟まっては、明るくはしゃいだ口調でふりまく愛嬌が耳に空々しかった。
彼女らはホステスというのだろう。一次の店で結構飲んでいた私は、席についてすぐトイレにいって胃を空にした。生活の知恵である。思えば大学の新入生だった頃は、こうして多く飲まされる危険をわずかながら回避していた。手を洗い口を拭って、なにごともなかったように席に戻れば、男たちは妙なはしゃぎ方で、女も同じようにはしゃいでいるのだが、やはり彼女らはどこか醒めていて、どこか自分を見るような思いがした。
そうなのだ。私は飲んではしゃいでいるふりをしながら、頭の奥に冷たい自分を残している。おもねて手を打ち喝采したところで、心は毫ほども動きはしない。早く帰って、ギターを弾きたいと思った。勧められるままに歌を歌って、女のうちひとりが、私この歌好きと愛想を入れたが、おそらく知りやしまい。だがかまわない。うまいと言ってくれるのも世辞だろう。悪い気はしないがいい気もしない、鉄の無感情である。
ただひとつ嬉しいことがあった。飲まないつもりでいた私の水割りに、ひとりの女がせっせと氷だけを入れて薄めてくれていたのだ。その人に私は、もう飲む気のないことを告げていた。その言葉のままに、できるだけ酒が水になるようにしてくれていたのだろう。それもひとつの愛想だと思うが、ありがたくいただいておくことにした。
はじめての場で、私はじっとホステスたちを見ていた。彼女らの愛想や愛嬌は、そう言ったものを持ちあわせない私には勉強になる。砂を噛む思いは同じかも知れない。