などと考えたのは、まだ首も座らぬ子を抱っこひもに手を添えて抱えるように、自転車を片手で運転する若い母親を見たせいだ。時間がないのだろう、子育ての大変なのも分からぬではないのだが、なによりもまず危ないのではないかと気になった。もしものことがあれば自分の子を守りきれない。加えて後に続く自転車の幼子を気遣いながらで、注意も散漫になれば、見ているこちらがはらはらとした。
私が親になったときには、どれほどのことを子にできるだろうか。きっと大したことはできやしまい。だから、二人乗りもできない不器用な私は、表に出るときには子の手を引いてせめてゆっくり一緒に歩きたい。合理性や効率なんかをまったく無視して、いちいちのことに気を留めながら、話などはせずともいいから、移動という無駄な時間をただただ一緒に歩くことでついやしたい。急ぐときには近道なぞして、けれどできれば都合にあわせてあわただしく振る舞うなどはなしにしたい。乗る電車などは、駅について次に来たもの。帰る時間などは、家に着いたその時間でいいではないか。一日にふたつみっつをする必要なんかはなくて、一日なにかひとつができればたくさんだ。遅れられないときは、早く出てでも慌てずゆっくりいけばいい。急がず慌てず、その時その時心の動きにしたがって、ゆるやかに流れる日々をともに生きていきたい。
子とともに同じ地平に立って暮すことのできる時間なんかはあっという間にすぎ、だからなおさら私はこと一緒の時間を無駄に長くとってでも、自分の歩調、子の歩調でもって、ひとつひとつを確かめながらいきたい。夏には日差しをうけ汗を流し、冬は寒さにかじかむ手をつないで、なんでもない日を流すでもなく惜しむでもなく、ただ淡々と生きられればそれでよい。振り返れば自分が子であったときも、そうして過ごしてきたのではなかったか。思い返すほどに、なんでもないことばかりが思いだされてくる。