習字をはじめて五年は経つのに、いまだうまく書けずにいる。どうにか六字を並べるのが関の山で、四苦八苦しながら書いている。稀によい字が書けたとしても、別の字がまずかったり、六字の塩梅に問題があったりで、満足がいくにはほど遠い。嫌気がさすのも毎度のことである。
字の拙さは、他でもなく自分の責任である。筆、紙といった道具が悪いわけでなく、ましてや教師が悪いわけがない。すべては自分の、とりわけ過去の自分の、字への取り組み方が悪かった。今でこそ字の美を少しでも考えるようになっているが、昔の自分はそれはそれは悪いものだった。
文字など、判別できればいいと考えていたのだ。字のうまいへたという以前の問題で、それこそ覚書になればいいというくらいに思っていた。覚書というからには、つまり自分さえ分かればそれでいい、他の人が読めるかどうかは問題にもしていなかった。殴り書きするみたいに早書きして、それでも拙い字を恥じるくらいの分別はあったから、下手を言い訳に人前で書くのを避け続けて、我流の悪筆をこっそり育ててきた。
長年、そういう、文字の冒涜としかいえない書き方をしてきたせいで、すっかり悪い癖がついてしまった。歪んでバランスの悪い字形。手習いとはいったもので、手がすっかり覚えてしまって、これは容易には抜けるものではない。いや、おそらくこの先一生持ち続けなければならないのだろう。字はきれいに書きなさいと親はずっといっていたのに、わざと逆らうような真似をして、本当に馬鹿だったと後悔している。
しかし、それでも私の字は、ちょっとはましになったのだ。以前のように、人前で恥じることは少なくなった。芳名帳にも拙いながら書く。手紙も手で書く。自分の字を人目にさらすことで、少しでもきっちり書こうという意識を高める。一字一字を、よく手に覚えさせたい。活字をではなく書字を手本に、一字でも多く、一点一画を大切に書きたい。