二千四年九月

敬老の日

 今日はお年寄りを祝うための日だ。しかし私にはその長寿を祝う老人がなく、えー、父方の祖母は健在なのだが、もう長いこと会っていない。この春に亡くなった母方の祖母に関しても、私は最後の数年にただの一度しか見舞わなかった。彼女らの孫は氷の心を持っている。

 日本の都市には核家族がいっぱいで、日本は年寄りたちでいっぱいだ。現在、我々は高齢社会に暮らしているが、お年寄りの存在感は希薄である。高齢者はどこにいるのだろうか。孤独の家か、あるいは老人ホーム?

 毎年この日には、贈り物の贈呈やイベントへの招待、子供たちの老人ホーム訪問など、多くの催しが行われる。しかし私はこれら催しの是非を判断することができない。お年寄りは喜んでいるのかあるいは否か。

 こうした催しがしばしば行われるなら、おそらく皆は仕合せだろう。特別になにかをする必要はないのである。大切なのは老人たちが私たちの日常の社会に加わっているということ、そう私は思っている。だがもし催しがその時限りのものであったら、その催しはアリバイ作りのためだったのかも知れない。そうした場合、きっとすべての人は不仕合せに違いない。

 皆は仕合せなのだろうか、あるいは不仕合せなのだろうか。状況にも現実にも明るくない私は、その答えを知らない。

(初出:Les douze mois au Japon, mais selon moiオリジナル:フランス語)


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公開日:2004.09.22
最終更新日:2004.09.26
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