耐え得ず

 通夜葬式が済んで一息ついた。この歳にして身内を失った経験を持たず、ゆえにすべてははじめてのこと、知らぬことばかりで、まごつきもし、また(不謹慎に聞こえるかも知れないが)珍しいものを見る思いであった。

 祖母が高齢だったこともあって、葬式は身内だけで行うと決まり、参列者は多くはなかった。子供の頃は大きく感じた祖母の家だが、今となれば随分と手狭に感じる。二間をつなげたにもかかわらず、祭壇の置かれた部屋は参列者がどうにか入るかという様子で、最後にこうして大勢が集まってくれたのだから、祖母は喜んだのではないだろうか。

 反面、私は、その人数に耐え得なかった。

 子供時分のこと、盆暮れにこの家に親戚従姉妹が集まって、それを私は毎年楽しみにしていたにも関わらず、泊まりがけの最終日などにはすっかり耐えられなくなって、一人別室で、食事もとらず、本を読んでいるようなところがあった。集まるといっても三家族ほどのたいした人数でもないのだが、それに私は耐え得なかった。人が増えるに従い元気がなくなり、人を避けるようになっていって、これは今にしてもなにも変わりがないと、今回のことでよく分かった。仏様の安置された間に、ずっと一人灯明と線香の番をしながら、本を読んだり、ただ座ったりで過ごした。従姉のわがまま娘がまとわりつけば、最初こそは相手もしたが、次第に気詰まりになり追い出すようになって、人が集まれば私は進んで追い出されて別室に移っていった。

 式が終わり参列者が去って、私の家族が残った。両親と伯父夫婦が話している間、私は帰りたくて仕方がなかった。この感情には覚えがある。子供時分、何度も得た感情だ。親が一緒でなければ帰れない子供の頃は、その感情を持て余した。今も持て余している。激情に似て、私はそれが吹き荒れる寸前で耐えようとしたがかなわず、一言断って一人先に帰った。こうする他に、どうしようもなかったのである。


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公開日:2004.03.08
最終更新日:2004.03.08
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