失う

 この頃、どうかしてる。と、その前に、私について少し話しておいたほうが分かりよいだろう。

 はずかしながら私は物に執着するたちで、だがそれは金銭的な価値やなんかとは関係なく、自分がどれだけ気に入っているかという心情的なものと、どれだけの時間を過ごしてきたかという物語にひきずられる、センチメンタルに属する種類である。

 このような私だから、失うことはなににもまして悲しい。数年前、うっかりと気に入っていた茶碗を割ってしまったことがあった。それは揃いの五客ものだったが、こうしてひとつが欠けてしまい、数日にわたってひどく落ち込んだ。欠けがあるにも関わらず、捨てず使い続けている湯飲みがある。危ないから捨てればいいといわれて、捨てるくらいなら自分の身を捨てたほうがましだと答えた。それくらい、私は物に執着する不自由の人間なのだ。

 その私が、電車を降りるときも落とし物してないかきょろきょろ確認せずには落ち着いて席も立てない私が、立て続けに物をなくしてしまった。最初は手袋で、右手だけを落とした。本のページをめくりにくいと、落ち着きなく脇に挟んだのを電車で落とした。気付いて駅に問い合わせ、遺失物センターまでいって、果たして出てこなかった。片手だけの、ほつれかけの手袋だから、ごみにされたのだろう。やはり私は数日をくよくよ過ごし、百円の手袋に女々しい。だが私には小さなショックではなかった。

 そして今度はマフラーをなくした。どこでかは分からない。人と会って食事したときが疑われる、店に電話するがなかった。心当たりもない。道の途中か電車か、いずれにしても私はどうかしている。マフラーは古いがよいもので、母が若い頃使っていたのをもらった。中学から大切に使ってきて、ついになくした。緑のスコットランド風のマフラーだった。

 どうして自分を呪わないでおられようか。だが誓っていうが、私は物を惜しんでいるわけではないのだ。


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公開日:2004.02.17
最終更新日:2004.02.17
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