端書手紙は手書きと決めているので、当然年賀状の宛名も手で書く。しかもなぜか、改まってなのか、年賀状にかぎっては筆で書くのがほとんどだ。へこたれている年はペンで済ませたりもするが、ここ数年は毛筆を保っていて少し嬉しい。しかし端書の紙質は毛筆にあわないので、決まってうまく書けない。洋紙は墨を吸わずはじかず、べったり黒々と、よくいえば墨痕たくましく、有り体にいえば真っ黒けにつぶれてみっともない。恥だ恥だと弱っている。あまりのまずさに言い訳したいが、それをするとみっともなさの上塗りになるから、黙って字のまずさに耐える。
和紙に書くと、さすがに書字はこの表面に育まれたと納得する。まずい字がましに見える。得意になる。下手に見えるのは紙のせいなんだと自分をごまかしたりもできる。習字の書き損じの隅っこに人の名前宛先を練習して、今度こそと意気込んで端書に挑戦して敗れて、裏側がインクジェット用紙、表が和紙の端書はないものかと嘆いた。
うまく書けないのなら途中からでもよして、まだごまかしの効くペンに持ち替えたらいいのに、一旦筆で書き出したら意地になってしまって、最後までこれでやっつけようと、私は意固地なのだ。ちょっとでもうまく書けたら嬉しいが、この人にこそという相手にかぎって、力むんだろう、変な字に仕上がって嫌になる。罰ゲーム受けているみたいな気分じゃないか。泣きたくもなる、冷や汗も出る。気が縮こもるから手も滞ってなおさら悪い。最後の方はやけになって書いて、私の年はこんな捨て鉢気分で暮れるのだからいつもおかしい。
そんな思いまでして筆で書くのは、恥をかかないことには上手にならないと思うからだ。恥ずかしいからせめてましになるよう気づかう。本当は、自分に対して恥じていれば充分なのに、ほら、自分というのは常に自分の味方だったりするから。だから、あえて敵地に飛び込むつもりで挑んでは、負けた気分になる。