近所に幽霊車が出没するという噂が立って、それを見たという人間も少なくない。私も見た。黄色の車体、スポーツタイプの車が狭い路地に曲がり込むところを後ろから見て、次の瞬間には消えていた。あれは間違いなく幽霊車だったと思う。
うちの二軒隣の門口に陰気な女が立っているのを見かけて、あれも幽霊だ。見た瞬間に私は悟った。しかし、幽霊車とは違い、この女の話題はまったく人の口にのぼらない。見ているのは私だけなのだろうか。あまりにはっきりと見えて、通りを歩く私に視線を送っていることもありあり感じられる。目をそらさないではおられなかった。目が合えば憑かれる。あたかも気付いてないかのように振る舞って、つとめて急ぎ足に家に向かった。
思い切って女の話題を切り出した。すると誰もがその女のことを知っていて、私はようやく安堵した。誰もの顔に安心したという表情が浮かぶ。あの女の陰気に怖れを感じていた、見えているのは自分だけかと思っていた、口にするのもためらわれたと口々に言い合って、そうして見えていたのは自分だけでなかったことに安心する。重荷を下ろしたという風があった。
そして、私はあの女に憑かれた。気付けば女は私のすぐそばにあって、振り返った肩口あたりに女の顔がのぞく。黒髪、ショート、化粧気のない女。カーディガンは淡い黄色。ブラウス、長いスカート。常にうつむき加減でいる。女はいかなるときも私から離れることなく、最初に女が目撃されたあの家の玄関先から離れた今、まわりの目にこのこぢんまりとたたずむ女の姿は映っているのだろうか。私は問うことができなかった。払うこともできなかった。ただ、女のしたいままにさせるほかなかった。
最初は気になった女の影も、次第に慣れた。女も打ち解けたのか、無口寡黙であったのがこの頃は話しかけてくるようになって、この女が陰気なだけではないことを私は知った。女は、結婚しようと思った矢先に死んだ。裏切られていることを知って死んだ。相手の男と一緒に死んで、しかし自殺でも心中でもなく、それは事故であった。男のその後はわからないが、女の思いがわだかまっていることは知れた。
その後も女はことあるごとに話しかけてきて、むしろ饒舌といえる。口出しはうるさいが、わきまえて、控えるべきところでは黙っている。好感が持てた。思いがけずのぞき込んだ女の顔は、地味で、素朴だった。地味で素朴を好むという私にしても、このあまりに花のない女にひかれるところはなく、多少の残念を感じないではなかったが、それは言葉にはしなかった。これでも女は浮かばれぬ幽霊で、そうした者の気に障るようなことをいえるほどに私の腹は据わっていない。
目が覚めれば、もう明け方だった。起床の時刻にはまだ間が合って、私は幽霊女の存在感に違和感を感じて、まるで夢とは思えない。浅く眠れば、女は再び夢にあらわれて、必要以上の干渉をするまでになっていた。
プールにて。水に浸かっている私に、三人ほどの若い女が話しかけてきた。プールサイドを見上げるようにして、幽霊に憑かれているというとっておきを披露していたそこへ、突然幽霊女が腕を勢いよく引いたものだから、私は背から倒れるように水に沈み込み、数メートルを一気に引き離された。このところ、幽霊女の執着は目に余る。プールの縁に手をかけて起き上がると、女のいるあたりを睨みつけたが、そこに姿はなかった。姿は消していたが、私を見ている感触だけが残っていた。
私の様子に女達は呆気にとられ、私は私で幽霊に腕を引かれたと弁解するが、笑って本気にしない。足で蹴ったんだろうという。足で蹴ったくらいで、この距離を移動できるものか。女達はうけがわない。笑っている。私の背中には、視線がべったりと張り付いている。
目が覚めて、途端に幽霊女が憐れと思われた。もしこの女が現実に存在するものなら、夢の中だけでも相手になってやろうと思った。翌日の夢には、幽霊女はあらわれなかった。