こないだ見た情熱大陸の話。蜷川幸雄が公演を一週間後に控えて、時間が足りない、自分は天才じゃないから簡単にはいかないというのを聞いて、ちょうどおんなじようなことを自分もいったところだったから驚いてしまった。こうした、私みたいな凡人からしたら、才能もあって、なみなみならない努力や経験を積んでいる人からしても、時間というのは常に足りないのかと、準備を満足にするということは難しいのかと思ったのだ。
そして、ちょっと安心した。私はとりあえずあと五百年いきるつもりなのでそれほど心配はしていないのだが、それでも人生なにがあるかわからないからね。明日突然、ということもあるかもしれないし、だとしたら今やりたいことで今できることは今やっとかないといけない(やりたくないものは、当然先送りだ!)。私は少しでも早く自分の欲しいものに手が届くように、よどみなく毎日を充実させて過ごしたいと願っていて、けど本当のところをいうと、時間が足りない。毎日の時間が足りない、明日の時間が足りない、残された時間が足りない――。私は心を不自由にして生きているのだ。
人生は、与えられた時間をただやり過ごすだけなら気が遠くなるくらいに長くて、けれどいったん自分の成したいと思うことが見つかれば、あまりにも短い。鳥屋の梯子と人生はそも短くて糞まみれって本があるけど、これってドイツのことわざなのか? いずれにせよ、私はほんとにそのとおりだと相槌打った。人生はそもそも短い。その短い時間で、一歩でも進まないといけない。なのに、普段からていねいに一歩を運ぶということが私には難しく、ああ私は駄目な人間だ。水の低きに就くが如しというが、同じ水なら方円の器に随う方でありたい。滞っていれば人も水も腐る。だからさあ棹をささないと――。
と思っていたところに蜷川の言葉があった。ああ、あんな人でも同じなのかと思って、私はまた頑張れると思ったんだ。