身体が覚えている

 友人が最近生活のパターンを変え、電車で通勤するようになったとかで、二日目にして乗り過ごしをやってしまったそうな。眠ってしまって、降りるべき駅を行き過ぎてしまったらしい。ああ、いきなりの遅刻はつらいですねと思ったら、帰りの電車とのこと。それは幸いでした。

 私は高校を出て以来、大学にも仕事にも電車を使い続けているから、電車通勤にはすっかり慣れてしまった。逆に、自宅から歩いていけるような近い職場というのがなじまない。仕事というのは、とにかく一時間とかかけて電車に揺られていくものだという頭ができあがってしまっているから、近場に職場があるときっと変な感じがすると思う。仕事と生活がそんなに近くなると、私はきっと嫌気がさすだろうな。

 通学通勤に十年以上も電車を使っていると、正体なく眠りこけていても、減速するタイミングや、ポイントを通過する感覚で、だいたい今どの駅であるかがわかる。よほど疲れていれば乗り過ごすこともあるが、いったい年に何度くらいだろう。一度か二度か、いやもっと少ないかも。それこそ、いつ眠りはじめて、どれくらい眠っていたかもわからないほど深く眠っていても、駅が近づくと薄く目を覚ます。自分の降りる駅かどうか、目を開けなくともわかる。そうしたときに、人間とはよくできたものだと思う。慣れというのはたいしたものだ。これは私でなくとも、誰もができて感じていることで、だからよほど自然な仕組みなのだろう。

 私なんかはただの客だから駅やなんかといった要所要所がわかる程度だが、昔電車を運転していた人間に聞いた話では、どこの踏み切りであるか、どのカーブにさしかかったかまでわかるらしい。だから、電車が急減速したときの車掌の決まり文句「無理な横断がありました」というのが、本当か嘘かなんて丸分かりだ。もちろん私はわからない。素直でいい子の私は、ああ今、無理な横断があったんだねと思うことにしているよ。


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公開日:2005.10.06
最終更新日:2005.10.06
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