習字をはじめてから六年がたって、しかしそれでも私は自分の字には満足しないのだ。字のかたちのアンバランス、まとまりのなさもあれば、書いた文字の列に現れる不均衡、でこぼこも実にまずい。そもそも私は子供時分から大人になるまで、うまい字を書こうとしたことがなく、むしろあきらめがちに乱暴に粗雑に書いてさえいた。私の手にはまずい字が染みついてしまった。また活字ばかりを見て育った私の目には、うまい字というものがない。活字は書字とは異なる、字の形骸である。タイポグラフィとしての文字の美と、カリグラフィとしての文字の美は、まったく根底から違った別種のものなのである。
習字をはじめて六年、さすがに以前のようなあからさまにまずい字は書かなくなった。しかし私は自分の書く字のまずさに、そのつど嫌気をさしている。なのにだ、この私の字のまずさに、字を書かない人は気付かないのだ。うまいですねといわれて、祝儀香典の際にはお願いしようかうんぬん。それは困る。本当にうまい字というものを見たことがないからそんなこというのだろう。本当にうまい字とは、見るものを圧倒するような、それまでの価値を転倒させるような、そうしたもののことをいうのだ。
私がこれまであった中で一番うまい字を書いたのは、大学に勤めていたとき、窓口で出会った学生であった。届けに書かれた名前があまりにもうまくて、私は瞬間目を見張った。見れば、そんな字を書きそうにない、今どきの学生だ。彼女の専門はピアノだったのだが、ピアノよりも書字の方がずっと才能あるんじゃないかと、彼女のピアノを聴いたこともないくせに思った。
うまいにはいろいろある。一目見たらうまい。これが私の位置だろう。よく見るとまずいわけだ。それから、普通にうまい。この普通にたどり着くのが難しいのだが、それでも普通。そして本当にうまいと続く。本当にうまいはすごい。この世のもんではなくなっている。