今更の話題で申し訳ないのだけれど、機械音痴の母がデジカメを買ったという話を偶然見つけて、それで私はどきりとしてしまったのだった。デジカメに喜んではしゃぐ母の姿と、素朴な質問にいらだって冷たい言葉をぶつけてしまった息子の関係が、私と母のそれに不意に重なったからだ。そうなんだ。私はそういう冷たい言葉を吐くような息子で、父や母にそうした仕打ちをしてきた覚えがある。ときに反省して、もっと優しく接しようと思うのだけれども、それでも冷たい言葉遣いが抜けきらないことがある。だから、この話に出てくる息子の涙というのは、いつか私も流す涙かも知れない。そう思ったら、泣けてしかたなかった。私は父や母に優しくしなければいけない。後悔は常に遅いのだから。
この話は今朝知って、夜になって不意に母にカメラを買ってあげたいと思った。商品説明のページを見せて、欲しいかどうかと聞いたのだった。実売価格は三万円以下。欲しければ買うけれどどうか。そして私はこのカメラを買うことにした。思いがけない申し出に母は喜び少しはしゃいでいた。カメラが届けばきっといろいろ聞いてくるだろう。その時にはできるだけ答えよう。そう思った。そしてカメラが母の便利になって、母の領域を広げてくれればいい。そう思った。
そして私は知らないうちに、人の喜んでいるのを見るのが嬉しいと思うようになったのだと気付いたのだった。私は昔はもっともっと利己的で、自分の物は自分のもの、貸しはすれど与えるだなんて思ったことはなかった。あらゆるものを与えられていたというのにだ。それが誰かを喜ばせるために与えることを嬉しいと思うようになって、ずいぶんな変わりようだが、これは少しは私が人間味を取り戻したということなのかも知れない。
カメラはまだ購入していない。だが明日には買うだろう。この文章は私の気を変えさせないために書かれた。いったからには実行されねばならない。
なんか機械音痴の母がデジカメを買った。 どうやら嬉しいらしく、はしゃぎながらいろいろと写してた。 何日かしてメモリがいっぱいで写せないらしく 「どうすればいいの?」って聞いてきたが 「忙しいから説明書読め!」とつい怒鳴ってしまった。 さらに「つまらないものばかり写してるからだろ!」とも言ってしまった。 そしたら「・・・ごめんね」と一言。 そんな母が先日亡くなった。 遺品整理してたらデジカメが出てきて、何撮ってたのかなあと中身を見たら 俺の寝顔が写ってた・・・涙が止まらなかった。
私の調べたなかで一番古かったのがここに引用した発言(タイムスタンプは2002年10月24日)なのだけれど、オリジナルの発言はいったいいつなされたのだろうか? この文章を母にかいつまんで説明したさい、思わず涙ぐんだのはわれながらみっともなかったと思う。