カメラを持ち歩くようになってからふた月が過ぎ、さすがにそろそろ撮ろうというものがなくなってきたというのが正直なところだった。だって、カメラを持ちはじめた当初こそは、なんでもかでもが珍しく面白く思えて、至る所にレンズを向けてみたりもしたのだけれど、そうした素朴な感動というのもいずれ薄れてしまう。感動がなくなれば、あえてそれを撮ろうという気持ちにもならず、勢いカメラは煩わしいだけの荷物になる。ここで面倒くさがって持ち出さなくなるともうおしまい。カメラはしまわれたままに、ただ所有しているだけになってしまう。
flickrに参加していたのがよかったのだ。flickrはカメラの写真に残すExifデータでもって、日付ごとのアーカイブも作成してくれる。私は、ちょうどカレンダーみたいに表示されるその升目に空きができるのがしゃくだからと、毎日一枚でも二枚でも撮影するように心がけていた。出かける際には必ずカメラを持って、なんでもいいからよいと思ったもの、せめてましだと思えるものを撮影するようにしていたのだった。
最初私はただの抜け殻かと思った。近づいてみれば中身が入っている。羽化の途中で頭だけ出して死んだのだろうと思い、せっかくだからと一枚撮った。手ぶれしたかも知れない。用心のためにもう一枚撮っておこうと構えたときに、蝉が頭を振りだした。ああ、これは生きている。まさしく今羽化しようとしている最中だとわかった。
それからはもう持久戦。とにかく撮れる間は撮ろうと決めて、座り込んで羽化が終わるのを待つことにした。時は夕刻、どんどん日は沈み暗くなって、頼りは行き過ぎる車のヘッドライト。ライトが当たって明るくなったとみればシャッターを切る。手ぶれや増感によるノイズを気にしてなんていられないと、久しぶりに前のめりになって撮影していた。
こうしたシャッターチャンスは、到底私にはこないものだと思っていたから嬉しかった。蝉の羽化を通して見たのもはじめてではなかろうか。もしカメラを持っていなかったら見逃してしまっていた。そんな目立たない、ほんのささやかなできごとだったけれど、私にはすごくわくわくとさせるイベントだった。
八時前になって、さすがに光量不足が深刻と思われたので、引き上げることにした。急ぎうちに帰り、一風呂浴びてさっぱりしたと思ったら雨が降りはじめた。もう少し粘っていたら降られていたタイミングだ。運が良かった。運が良かったはいいのだが、蝉は無事だろうか。羽化したての昆虫は弱い。雨に打たれて死ぬこともあるというけれども、なんとか生き抜いて欲しいものだ。蝉の側を離れてからの十数分、その間に充分体が固まっていたらよいのだけれども、そうでなかったら……。しかし、そうして命を失うのも自然なんだろう。こんなことは蝉を見つけなければ思いもしなかった。カメラがなければ見つけることもかなわなかったろう。