堪えて堪えて、いっぱいいっぱいになっているところに落ちる最後の一滴が自殺の引き金になる。どうしてあんな些細なことで、という問いの向こう側には、長い時間をかけて蓄積された鬱屈や不安、苦悩がどろどろにつまっていて、いつ自死を選んでもおかしくないという状況が完成していた。ただ誰もそれに気付かなかっただけの話で、あるいは本人さえもその危険な状態に気付いていなかった可能性さえある。この例えは『自殺の文学史』で用いられていたもので、うまいことをいうと思ったものだ。
それでなくとも今は死にやすい時代だ。空虚で実感に乏しく、そのわりにストレスばかりが濃厚で、ちょっとのことで死にたくなってしまう。理由なんていらない。空しさやいたたまれなさが、そのまま死に直結していると感じる。もうなにも考えたくない、死ねば楽になれるんじゃないか、そんな考えをぬぐい去れない。なにをしてても陰鬱な気分が晴れない。
そういうチャンネルに繋がってしまったのだろう。ラジオでチューニングするように、自分自身がそういう波長に合わさってしまって、健全な状態ならなんとか違うチャンネルに移ろうとするところだが、それだけのエネルギーを持てないでいる場合が危ない。自分では抜け出せない。こういうときには人に会うといい。波長のかけ離れていない、しかし健全な状態にある人間に会うといい。身近にそういう人間がいるものは幸いだ。だがもしそうした誰かに巡り合えなかった場合、またあるいは自ら死に向かって歩み寄ろうとしてしまったなら状況は最悪だ。ニュースで自殺が報じられる。自分と似た境遇にある人間が自殺を選んだと知る。ネット上には自殺を思っているものがたくさんいる――。そうしたことのひとつひとつが追い風となって、ぎりぎりの淵にとどまって堪えている人間には、きっと逆らうことのできない誘惑と感じられるだろう。だから死ぬ。つくづく死にやすい時代だと思う。