書いてみてしまったと思うことがある。面白い話を書くつもりであったにも関わらず、いざできあがってしまうと、当初の予測を大きくはずれた妙にシリアスな文章になってしまった。こういうときに思うのだ。しまった、やっちまった。いや、本当にどうしたものか、最高に面白くなるはずだったものが、変に深刻になってしまうことはあまりに多くて、出すべきかあるいはなかったことにするか、悩んでもしかたがないから出してしまうのだが、もし私に文章のストックやなにかがあれば、つまりは余裕があれば、きっと没にしてしまうようなものも結構あるのだからやり切れない。
真面目になってしまうのはそれはひとえに性分だからという以外にいいようはないのだが、それにしてもあんまりで、うわあ、この人やばいんじゃないか、こんなに悩んじゃったりして、このまま死んだりしたらどうしよう、なんて思われたりするのはやっぱり心外、いやじゃないか。本当は面白いネタだったはずなんだけどなあ。読み方のわかっている私にはその文章からおかしみを感じ取ることもできるのだが、他人にはきっと無理。とりわけ親しい知人が読んでわかるかわからないかのぎりぎりといったところ、一見さんなんかには絶対わかるわけがないという領域だ。
文章にかぎらずあらゆる表現は、そのもともとの意図からはずれて理解されることがむしろ自然で、それはすなわち読み手の自由を保証しているともいえる。読み手は目の前にあるものを自分自身に引きつけることで、自分のこととして理解し飲み込む。だから読まれた時点で文章は読み手のものであり、書き手からは離れてしまっている、――とはいったものの、やはり意図したように読まれないだろうという予感は、書き手にとっては穏やかではない。
私とは逆に、真面目に書こうとするがどうしても不真面目になるという人もいる。いったいどっちが仕合せなのか、いや多分どっちも不幸だと思うが。