沖田シナリオを読んで。
死ぬことというのがあんまりに身近すぎたりして、しかもその死というのが切っても切れない自分自身のものであったりすると、やっぱり人は空しさを心に抱えてしまったり、喜びや楽しさを貪欲に求めるよりも、一歩引いて眺める傍観者になりがちなのかな。いずれ死ぬ。すぐに死ぬ。多くを求めてもしかたがないから、私は求めないんだというように。
現実にそういう感じの人を知っていて、それでもその人は現実に血や肉を持って存在する人だから、なにもかも欲も得も捨ててというような感じではなかったのだけれども、どこか一歩引いて傍観の位置にあろうとするような空気があって、私は多分その人のそういうところに引かれたのだと思う。けど、私は若くて、その人に世の中にはたくさん楽しいことやよいことがあるのだよということを伝えられなかった。私は、大学において姉と慕ったあの人にあちこち連れ回されて、少しばかり人間味を取り戻せたと思っているから、その人にもそうしたちょっと違ったなにかを垣間見せたかった。まあ、無理だったんだけれども。
沖田のような人にはむやみにひかれてなりません。多分、私自身、一歩引いているようなところがあったから、そうした悲しみとか空しさとかからすくい上げたいという思いがあるのでしょう。できればその人にとっての灯し火でありたい。まあ思い上がりなんですが。
なお、ここでいっている沖田とは沖田総司を下敷きにしたフィクションのキャラクターで、現実の沖田とは異同があります。近藤が死ねば、沖田もすぐだというのは史実として理解していることだけれども、それでも悲しいというのはおかしな話。人間はときにありもしない人を偲ぶものだと心得ます。
(初出:2006年6月14日)