私は短歌を詠みます。そして友人へのコメント:
短歌も含めてあらゆる表現は、いつか誰かわかってくれる未知の人に向けたメッセージです。そしてもちろん、まったくの未知でない人に向けたメッセージが含まれていることもあっておかしくない。
本来、歌は手紙としての機能も担っていました。あからさまに思いの丈を相手にぶつけるのではなく、歌の中に思いをひそませて届けた。このへんの情景はおそらくは平安の時代がもっとも色濃く、掛け詞、本歌取り、あらゆる手によって思いのいろいろを相手に伝える努力がされて、その頃は歌詠みが教養だったから、送るほうも受けるほうもどちらもにそうした素養があった。そういう事情があったからこそ成り立ったのだと思います。けれど今は、送る私にしてもつたなく、また受ける人にとってもなれないものでありますから、やっぱりきっと通じない。いや、通じないのは歌だからとかそういうのではなく、「ストレートに、思ったことをそのまんま書いたつもりなので、そのまま読んでくださるのが一番ありがたいと思います」などという私からがまっすぐにいいたいことを伝える努力をしていない。そのせいだと思います。
いったい私はなにが不満で、誰になにをいいたくて歌なんか詠むのでしょう。ときおり疑問に感じます。そもそも私の書くもの詠むものなににしても、いったい誰のためのものなのか、そのあたりは私自身がもうとっくにわからなくなっていて、けれど確かなことがあるとしたら、私はそれでもなにかをいいたいということです。いいたいこととは結局は、日々折々に思うところであり、胸の奥のわだかまりであり、そしてそこに感動や愛があればよいなと思う。すなわち私は、自分のために書いているのだというのでしょう。自分のなかのいろいろをかたちにして、いたわりなだめて、そしていつか誰かが私の断片であるそれらを見つけてくださればよいと思っているのでしょう。