実感に勝る知は存在しないのですから。
私は、人間がなにかを行おうとする根本には実感というものがあると信じています。いや、信じたいといういうほうが正しいかも。実感があって、その実感の確かであれば確かであるほど、より説得力あるものができあがると、そんな風に思っています。
じゃあ、その実感というのはなにかというと、こういうのは言葉にしては説明しにくいのですが、「手応え」であるとか「確信」であるとか、そうしたものをひっくるめて実感といってよいのではないかと思っています。身体的な感覚が実感となるのはわかりやすいと思います。ボールを打ち返す瞬間、これだというあたりを感じる。面白いことに、これは身体から離れたものであっても同様で、例えばテレビゲームででもこれだというあたりを感じたりする。その「あたり」をつかんだ感覚を実感といってもいいんじゃないかと思うのですが、私はそうした実感がなによりも大切だと考えています。
昔、私が学部の論文を書くときに、なにぶん時間がなくて、けどとにかく書かないと卒業できないわけですから、いろいろな題材の中から、「特に強い興味があるわけではない」けれども「とりあえずこれなら原稿用紙の升目を埋めることはできそうだ」というテーマを選択しました。当初の予測の通り、そのテーマは単位をもらうには充分でしたが、「読んでてつまらなかった」という評価しか得られませんでした。
この「つまらない」という感想の根本には、論文を書くときに、自分の中にある実感からスタートしていないという大きな欠点があったからだと私は思っていて、だって問題意識もなにもなしに、資料を集めて、整理して、それをそのまま書いて、それっぽい結論をくっつけて、ここには私の視点もなければなにもない。極めて空疎な言葉が連なってるだけという、そうしたものだったんですね。この論文はインターネット上に公開中。恥だとは思うけど、旅の恥はかき捨てだから気にしない。いや、本当は隠してなかったことにしたいという気持ちも強いのですが……。
次に書いた論文は、読んで面白かったという評価を得られました。私はそれはやはり実感からスタートしたためだと思っています。私はその論文では、私のずっと疑問に思ってきた「オリジナルってなんだろう」という違和感を明らかにしようとして、そして以前からずっと思っていた「なにかに取り組むということは人間を育てる」ということについても書くことができた。私の個人的なテーマであった疑問や実感をうまく表現できる題材を見つけることができたのも非常に幸運だったと思います。
昨日いっていた、児童文学の話。あれも実感の有無で説明できそうです。私は物語をするにあたって、実感からはじめなかったのです。それっぽい枠組み(設定)を作って、それっぽい物語を書いただけで、そこにはなにか、私にとってのテーマがなかった。そんな空っぽな言葉のつらなっただけのものが、人を感動させるような力を持つわけなんてないのです。
実感のともなわない言葉は空虚です、空っぽです。でもそうしたものは意外にたくさんあって、ちょっと愚痴っぽくなりますが、私が関わっていた学問の世界にもそういうものはたくさんあって、いったいぜんたいなんだかなあと、ずっと違和感を感じていました。私は言葉は重要だと思っていますが、言葉は常に不足だとも思っています。言葉では実感を充分に表すことができず、けど私たちはやっぱり主に言葉でしか思いやなにかをやり取りできないのですから、苦労して思いであるとか実感であるとかを言葉にするのです。そのとき、実感や思いが強くて大きければ、それらが確かであればそれだけ、言葉は、表現は強くなります。でも、その伝えようとする実感もなく、かたちだけつくろっただけみたいな言葉にどれほどの力があろうものか。と、こんな風なことをいって、喧嘩をして、もうこねえよ、うわあん、みたいな感じにして席をけって、私は学問の世界に背を向けたんですね。
なんだか、子供みたいだな。ちょっと恥ずかしい。
私のやっていた学問は音楽学で、もともと実演よりだった私ですから、別に音楽を表現する手段が論文じゃなくってもいいやー、という思いもあったわけで、それで今、ギター弾いたり、うた歌ったりしてるわけですが、歌う、演奏する、作詞する、作曲するという時にもやっぱり実感というのが重要であるなと「実感」しています。そして私には今、その実感が足りないという思いが強くて、だから実感のあふれる日を練習しながら待っているという感じなのですが、つまりここで私が言いたいのは、学問というのは実感を表現する一手段であって、他の手段があるなら、別に学問じゃなくったってちっともかまわないということです。
(初出:2006年4月16日)