学問について話す機会があって、できればそれをこちらに書いてもらえませんかというリクエストをいただいたので、ちょこっとずつ書いていこうかと。けど、学問だなんて、学の世界に背を向けて後脚で砂をかけようという私がいったいなにをいえるものかな。
学問でなくてもそうなのだけど、人間の根源的な欲求のひとつに「自らを知る」ことへの希求というのがあると私は思っているのですが、それは大きくいえば人間という存在や生命そのもの、そして世界について知りたいということに繋がるのでしょうが、けれどその最もシンプルなかたちというのは、自分っていったいどういう人間なんだろうということなのだと思うのです。
だから、占いとかいつまでたっても大人気だし、性格判断みたいなものも変わらず人気です。
で、自分探しなんですが、これってちょっと違うかなというように思っています。自分探しという発想の根底には、今の私とは違う「本当の私」がどこかにあって、それはきっと素晴らしいものだという思い込みがあって、けれど実際のところそういう都合のいい私なんてのはないわけで、だから自分探しといっている人は労力と時間を浪費しているなと思います。
自分というものは、残念ながら現状渡しでしかなくて、欠陥があったり不具合があったりしても、それをやりくりしたり、直せるところは直してみたり、そうしてなんとかつきあっていくものでしかないんだろうなと、そんな風に思うんです。例えば私なんかは極めてバランスが悪くできていて、突出している部分がある反面、標準に比べて著しく劣るところもあって、なんだか生きづらいなあと思ったりもするのですが、それはしかたがない。こういうアンバランスなのが私なんだからと、あきらめて受け入れて、なんとかやりくりしていくしかないんだろうなと思う。
自分を知るというのは、現状渡しの私がどういうものであるかを観察して、分析して、時には実験してみたりして明らかにしていくものですから、いわゆる「自分探し」とは大きく異なっています。今の私とは違う本当の私があるのではなくて、このどうしようもない私を肯定する。
この肯定からあらゆることはスタートするのではないかなと思います。そしてその自分を知るための一手法として学問が存在しているのではないかと思います。
案の定、支離滅裂になっちゃった。しかも長いしくだくだしいし。疑問やなんかがあれば書いてくだされば、次回以降にそれについて書くかも知れません。書かないかも知れません。書かなかったときは、ははあ、やつめ逃げやがったなということで。なにしろ、私自身こうしたことをよくはわかっていないのですから。
続きます。多分、次は全然違うテーマです。
(初出:2006年4月13日)