Lha. 送ります。

From:
snowdrop@***.jp
To:
***@***.jp
Subject:
Lha. 送ります。
Date:
Thu, 14 Jan 1999 23:43:00 +0900

 Lha. 送ります。

 今日、別に試したわけではないのですが、専門用語を使わずに音楽を生業としていないバイト先の友人に、絶対音と絶対音感を説明することが出来ました。

 彼の、「(絶対音は)標準規格みたいなもんですね」という答えから、おそらく自分のいわんとしていたことは充分伝えられたと思います。

 それを踏まえて、少し帰りの電車で考えてみました。

 僕はバイト先の彼らと話しているときは、少なくとも今日先生にいわれた選民意識的物言いはしていないのです。バイト先の人間にもやはり当然のことながら好き嫌いがあり、自分とそりのあわない人間もいるのですが、そういう人間と話しているときでさえ、選民意識的なあらわれは出ていません。そしてそれは、自分自身の心情を話しているときでも同じなのです。

 学校での今日の話しの端々に選民的な側面が出ていたというのは、バイト先での例から考えてみると、おそらくは(もちろん選民意識的な意識もどこかにあってのことなのでしょうが)今日対話していた人間関係のなかの不理解のためであると思うのです。

 バイト先では、大学と違い、自分の人間性などを多く開示しています。また逆にこちらも相手がどういう嗜好をもち、どういうことを考えている人間かということも知っています。そのため意見の大きな相違があっても、またよく表現しきれない感情を伝えようとしても、相手が今どのようなところにいて、どのようなことをいいたいのかということが、ある意味透明なのです。

 ですが、学校の人間関係ではそういう関係が成り立っていません。今までそのための努力をしてこなかったわけではなく、何とか自分の人となりを伝えたいとは思ってきたのですが、ことごとくその度に今回のような形をもって失敗してしまっているため、今のような状況を残しているのだと自分では思っています。そしてその不理解の連続が、相手が今どのようなことをいわんとしているかを思おうとするのではなく、僕が相手を見下したように、相手も僕を見下して、互いに疎外しあう結果を生んでいるのだと、むしろ自分に向けられた言葉に自分を見下しているという感じを受けて、それに反発する形で同様な疎外を返すという、この様な不幸な結果を生むことになっているのだと思うのです。

 このような結果を生み出したのは、相手は自分を理解してくれるはずだという、ある意味においての、甘えなのだろうと思います。そしてそれは音楽を生業としない人間に専門用語を用いて説明しようとする姿勢と同じなのかとも、思います。

 ここからは不明瞭な話になります。

 大学で受ける妙な疎外感というのがあって、今まであの学校での六年間、ずっと苛まれ続けていました。今日バイト先で話していた例をあげますと、あのバイトの制服を着ている限り一般の人はわれわれを鉄道マニアと思っているのだろうな、というような、自己像と異なる在り方を押し付けられるような疎外感です。

 これは多かれ少なかれ避けられないことで、自分が、ルーズソックスを履いて髪を脱色して、冬なのに日焼けしているミニスカートの女の子を見たときに、あの子はピッチをもってキティとか好きで、チョームカツクっていうような子だ、と思ってしまうことを考えてみても、この問題は人事ではありません。

 しかしそうでありながら、自分が学校で、自己像とかけはなれた自己像を当てはめられているのではないかという疎外感を感じてしまう度に、自分の言葉すらも相手に届かないというような、砂を噛むような感覚に陥るのです。何度語ろうとしても、その言葉が届いているという実感が常になかったわけで、これは本当に自己否定的に絶望的にさせるには充分なことだったのです。こういう、自分という人間がみられていないという感覚を、学校だけではなく、いろいろなところで受ける度に、疲れてきたのだと思います。

(けれども逆にこういう感覚が常に付きまとっているために、ある意味自分と同様の疎外感を受けてきている人とは対しやすい、共通の理解の前提をもっている、というメリットもあって、一概に悪いばかりともいえないという状況も生じています。)

 今までこの様なことをいわずにきたのは、この感覚が疑心暗鬼によって生まれているものかもしれないという可能性を常に念頭に置いていたからです。この感覚はあくまでも主観的に過ぎます。

 先生はそんな疎外なんてないとおっしゃられるかもしれません。

 ですが、僕がこの様な疎外感を受けてしまうのは、少なくとも事実で、止めたいと思いながらも僕自身にも止められないことなのです。

 今日、楽曲解説の話しのくだりで、送り手の意識と受け手の意識が同等でなければ理解はされない、というような趣旨のことがいわれていました。そして僕は、そこで問題にされていたように、自分を受け手である誰かが正しく受け止めてくれているだろうという実感を得られないことがままあり、その可能性は大学では飛躍的に増大します。

 アイデンティティというのが、自己と他者のもっている自己像が一致していることだとすれば、僕は大学ではアイデンティティを喪失しています。そしてこのアイデンティティを回復できないという、今までの経験からの印象が、人間関係における僕の絶望の正体だといえるのでしょう。

 下らない話しでした。

 返事はいりません。

 出来ればこのメールは消して下さい。


日々思うことなど 2007年へ トップページに戻る

公開日:2007.07.21
最終更新日:2007.07.21
webmaster@kototone.jp
Creative Commons License
こととねは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(表示 - 継承 2.1 日本)の下でライセンスされています。