今日は感受性についての予定だったけれど、思うところあって、知識について。そもそも、私ってまわりからどんな風に思われてるのだろう。知の巨人……、せめて知のオール阪神くらいにはならないものでしょうか……。
知識というのは実は空しいもので、なにかに対する情報を持ってたとしても、それだけではたいしたことではなかったりします。なんというの? ふーん、そう、よく知っててすごいね。だから? みたいな感じで受け取っておくのが、知識というものの正しい評価なんではないかと私は思っています。つまり、私は自分自身をそんな風に評価していると受け取っていただけたらありがたいです(ここ、つっこみ不可。どっちに転んでも、収拾つかなくなりますから)。
知識が空しいというのは、それが孤立してしまってるときにそう感じるんですね。知っているだけに過ぎないっていう状態がそうです。でも、そうではなくて、例えばその知というのがなんらかの体験や経験から得られたものであったなら、素晴らしいものであるなと私は思います。なんでかというと、その知の背後には実際の手応えがあるからで、これは昨日おとついいっていた「実感に勝る知は存在しない」ということです。確信がある、実感がある、そうだという手応えがある。知識というのはそこまでに達してはじめて意義があるのだなあと思います。
けど、実際のところあらゆることを体験するというのは無理ですから、ほら、宇宙のことなんてちょっと私たちには体験するというのは無理で、本で読んだりテレビでみたり、そういう伝聞みたいな感じで知識を得るというのが精いっぱいなんじゃないかなと思うんですが、じゃあそうした知識は空しいのか、つまんないものなのかというと、決してそういうわけじゃないと私は思います。
知識は単体であるとき、他とのつながりを持てないときが空しいといっていましたが、つまりはそういうことで、他のなにかと結びつくことでより有意義なものになります。知識というのは、私たちと一緒でさみしがり屋だから、他の誰かと結び合わされないと空しい。ひとたび他との関連を得ればひとりだったときよりも強くなって、さらに別のつながりを見つけ出すこともできるようになって、こういうネットワークができあがると知識というのはただ知っているという状態から抜け出せるのだろうなと思うんです。
例えをいうと、以前、岡山の県の花はなんでしょうという問題で、答えは桃なんですが、正直私には覚えられる自信がありませんでした。けれど、岡山といえば桃太郎だから県花が桃なんだよと教えてもらったから私は今でもしっかり覚えています。多分、ぼけないかぎり覚えていると思います。
こういう風に、孤立している知識は弱くて、すぐに風化したり忘れられたりしてしまうんですが、なにか別の知識と結びつくことで強くなって簡単には消え去らなくなります。私は、この状態がいわゆる「腑に落ちた」ということなんだと思っています。ただ知っていただけのことが、実感を伴って身体的知に変わるのです。そして、こうした知識の変質がある一定のラインを超えると、知識のつながりが新たな発見を呼び起こす瞬間がおとずれます。
学問というのは、単体ではどうしようもない知識を互いに結びつけて意味あるものにするという活動であると思っています。すでに知られていることをつなぎあわせて、新しい仮説をうちたててみて、その仮説が正しいかどうかを調べる。調べる方法はいろいろあるけど、証拠を探してみたり、推理(学問だったら論証といったほうがいいか)してみたりして、謎は全部解けた! ここで、学問の場合は関係者を呼んで犯人を指摘するんじゃなくて、論文を書いてしかるべきところに提出するのが普通です。
学問というとなんかややこしくってしちめんどうくさそうだけど(そんで、実際面倒くさいところもたくさんあるんだけど)、推理ゲームみたいなもんで、やってると結構面白かったりするもんです。そして新たな発見が次の仮説を生んで、学問は延々と続いていくのです。
最初にネタにしてしまったけれど、紹介文書いてくださってありがとう。嬉しかったのですよ。けどおばかなんてことは絶対なくて、話を聞きたいと思うのは、話してくださることが面白いからで、その話の向こうにあなたの見ていらっしゃる世界が垣間見えるように思うからなのですよ。本当に、こちらこそ感謝しています。
(初出:2006年4月17日)