日本語という言葉の不幸

 一旦は無視しようと思ったが、けれどどうにもなにかいわずにはおられぬ気分であったから、無粋と知りつつ書いておこうと思う。

 まずは引用:

 黒川伊保子さんというエッセイストが書いた『日本語はなぜ美しいのか』という本がある。その本にはいくつかの興味深いことが書かれていた。

 まず感心したのは、日本人は「母国語」を話しているという指摘だ。母国語は本当に大切なものだから、小学生に英語を教えてはいけない。母国語が完全に身に付いてから英語を教えなさい。英語は中学校からで十分だ、というのが、その本の根本思想である。

 その例証として出てくるのが米国だ。米国人には英語が母国語ではない人がたくさんいる。英国から来た人は英語が母国語だろうが、それ以外は寄せ集めで、お互いにコミュニケーションをするために、仕方なく英語を使っている。つまり米国の英語は記号であり、心がこもっていない。

現実主義に目覚めよ、日本!(第56回)[日下公人氏]/SAFETY JAPAN [コラム]/日経BP社

 私が特に引っかかったのは引用部分の最後、つまり米国の英語は記号であり、心がこもっていないのくだりだ。私は黒川伊保子氏の『日本語はなぜ美しいのか』という新書を書店で見かけつつも、そのあまりに内向きすぎるタイトルを見て、読む必要のない本と判断したので、このくだりが黒川氏の主張であるかあるいはこの小文の著者である日下公人氏の主張であるかは知らない。しかし、それがいずれであったとしても、このあまりにも偏見にまみれた一文は、ぎょっと立ち止まらせるような違和感を突きつけてくる。飲み下すにも見過ごしにするにも容易ではない、そんな異質さがある。

 思うところはたくさんある。そのたくさんあるなかでも筆頭にくるのは、果たして本当にアメリカで使われている英語は、心がこもっていないといわれなければならないほどにひどいものなのかということだ。アメリカ英語に心のこもっていないという根拠としてあげられているのは、その言葉が話者にとっての母語ではないということだ。これは裏返せば、前段落にいう、母語であるからすなわち美しい言葉であるということに他ならず、しかし私はここでもまた立ち止まる。言葉の美しさは、それが母語であることに由来するのだろうか。完全に身に付いた母語が、その者の話す言葉の美しさを保証するとでもいうのだろうか。

 私はそうは考えない。なぜなら、そうではない事例をたくさん知っているからだ。異郷においてその土地の言葉で話し、文章を書く人間は少なくない。海外に目を向ければそうした例にはことかかず、またヨーロッパ諸国が植民地化したことにより母語を奪われた土地も少なくないが、しかしそれらの土地において宗主国の言葉による文学が生まれていることも知っている。そして、これがもっとも大切なことであろうと思うのだが、そうした境涯にある者たちが、日常の暮らしにおいて人と思いを通わせるためになにを使っているかということだ。それは母語ではない。その者にとってはどこか異質さをもった言語であるはずで、しかし彼らは、そうした言語をもって自分のうちにあるものを伝えようとする。日常の中で、さまざまな状況下で、彼らは自分の思いを誰かに伝えようとしている。しかしこの母語でない言葉は、冒頭の謂を借りるならば、自分の思うところを伝えるための道具である言葉は、美しさを持つことはないのだろうか。心のこもらない空疎な言葉であり続けるのだろうか。

 私はまたこうも考える。母語として身に付いた言葉は、それが母語であるから美しいのではなく、また母語であるから人の心を打つわけでもない。私がそのようにいうのは、私の愛する母語においても、美しさに欠け、人の心に届かない空疎な言葉のたくさんあることを知っているからだ。それも肌身で知っている。なにげない言葉が人を傷つけるところも見た。薄っぺらな、想像力にかける言葉が、誰の胸にも響くことなく、ただただ消えていくところも見た。しかも、それらはその者が母語として獲得した言語によって発されたものなのだ。それら言葉は、確かに私たちを繋ぐ、過去から綿々と受け継がれてきたものであったというのに、まるで混乱させられた言語のように、私たちを互いに遠ざけてしまう。そこにはもはや心は介在せず、荒れ果てた空っぽの寒々しさばかりが色濃い。

 日下氏の文章は、最後に東国原宮崎県知事と安倍総理を比べ、そのポーズがしらじらしく見える安倍総理よりもありのままを見せた東国原知事を持ち上げてみせる。そしてこの前段には、美しい母語と心のこもらない非母語の対比があった。この両者の比較は、いうまでもなく東国原知事と安倍総理のそれに重ね合わされるべく用意されたもので、すなわち、アメリカにおける英語は安倍総理のわざとらしさへの批判を補強する目的で取り上げられた。

 私はここで重ねていう。言葉の美しさ、心を打つ言葉とは、それが話者にとっての母語であるかどうかには関わらない。言葉の美醜を決めるのは、その言葉を発するものが、どれほどに自身の伝えたいことに心を砕いたか、また伝えたい相手に対していかに想像力を働かせたかであると考える私には、欧米崇拝の風から脱しようとしてその揚げ句に発せられた、自分の内に閉じこもるようなこうした言説は偏屈者のそれとしか聴こえず、まして響くことなどあり得ない。

 この文章が日本語という超ローカルな言語で書かれていたことは、著者にとってラッキーこのうえないことである。日本語はまず日本人以外には読まれることがないからだ。こうした日本語の少数言語としての閉鎖性が、日本語話者の想像力を奪うのだとしたら、それはあまりにも日本語にとって不幸なことであると思っている。悲しむべきことであると思っている。


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公開日:2007.04.27
最終更新日:2007.04.27
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