都会じゃ季節もわからないだろう、昔の歌の一節にそうした文句もありました。私の住んでいるところ、都会というほど都会ではないけれど、確かに季節はわからなくなってきている、季節にまつわる風習もひっそりと消え、折々に季節を意識するということもなくなってきたと感じています。けれど、それでも親の世代にはまだ季節の習いが残っている。それらに触れて、わずかながらも季節らしさを感じて、けれどおそらくは私の世代から下に向かうにつれて、そうした季節感はなおさら希薄になるのだろうな。好例の歌番組を観ながら、特に大晦日を意識することもなく、それこそいつもの毎日を過ごすようにしている私には、もう年越しも特段のイベントとして意識されていないようです。
そんな季節感の希薄な私にとって、年越しの風景といえるものが今もひとつ残っていて、それはなにかというと、蕎麦です。年越し蕎麦。こればかりは欠くことができない。季節を感じさせる数少ない風物として蕎麦だけは残っている。それはただひとえに私の麺好きであるがゆえであるのかも知れませんが、けれどこれが私の中より消えてしまったら、もう本当に季節を感じさせるような光景というものはきれいさっぱり失われてしまう、そのように思われてなりません。
今年の年越し蕎麦は、山芋のすり下ろしたものをかけたもの、とろろ蕎麦でした。蕎麦は十割蕎麦、つなぎを使わず蕎麦粉だけで打たれた麺で、そこに濃厚なとろろがかかる。それは美味しかった。とろろはねっとりと、汁にまぎれず味をしっかりと主張して、しかし蕎麦が負けていない。香りは芳醇、麺にとろろがからんで、すべるようにのどを通っていく。蕎麦湯が出る、もちろんいただいて、かくして私の大晦日は更けていきます。日常にまぎれながら、わずかに特別な日の雰囲気を漂わせながら、一年の最後の日が過ぎてゆく。この日が終われば年があらたまる。特別な日が暮れてゆきます。