私は基本的にオカルトにたいして中立です。あってもいいし、なかってもいいと思っている。それは幽霊の存在に対しても同様。幽霊はいてもいいし、いなくともかまわない。ただ、いるなら出会いたいと思う。生きている人間に良いのや悪いのがあるように、幽霊にも良いのや悪いのがいるだろうから、その良いのに会いたい。
さて、ここから本題。
先日、テレビで前世の記憶を持った少年が紹介されていました。この前世の記憶というのは実にポピュラーなトピックで、昔からいろいろな事例が紹介されています。
ただ、私はこの前世の記憶については懐疑的です。というのは、もし前世の記憶があるというなら、その記憶は一体どうやって新しい肉体にもたらされるのか。現在記憶を司っていると考えられている器官は脳ですが、前世の記憶が新しい肉体に持ち越し可能ということは、我々の記憶は脳以外のなにかに蓄積されているということに他ならず、だとすれば私たちは記憶をどこにとどめているというのか。魂なのか? それとももっと違うなにかなのか? 記憶が脳にではなく別のなにかに記録されているのであれば、脳障害により記憶が失われる(思い出せなくなる)のはなぜなのか? 考えれば考えるほど、前世の記憶については懐疑的にならざるを得ません。
逆行催眠をおこなうと、前世の記憶にたどり着くことができるという話がありますが、こちらはもっと眉唾で、例えばこういう事例を知れば逆行催眠の危険性がわかると思います。
一時期、特にアメリカでですが、カウンセリングの手法として逆行催眠が用いられることがありました。それは現在の状況の原因は過去のなにかにあるのだという考えからなのですが、その過去のなにかというのは、親から受けた虐待、特に性的虐待のことであったりします。で、クライアントに催眠をかけて記憶を引きだし、あなたは子供の頃に親から性虐待を受けていましたという答えを出す。こうした結果を元に親を訴えるケースが多発し、しかし調査してみたところ、虐待の事実はなかったということも多かったというのです。
逆行催眠は、無意識に押し込められた記憶を引きだしてくれる、なにかスペシャルなものであるかのように思われていますが、実際には、ありもしない記憶を呼び出してしまう、危険なものであるのです。
けれど、この間のテレビでやっていたケースは、前世の記憶はやはりあるのだろうかと思わせるに充分な事例を扱っていて、私の懐疑は揺らいでいます。けれど、それでも私は自分の懐疑を捨てきれない。それこそユング(を都合よく援用する人たち)のいうように、集合的無意識というものがあって、それを仲立ちにしてジェームスはジェームス3の記憶にアクセスしえたのだ、みたいな話の方が「まだ」納得できる。けど、私はそのどちらにもやはり懐疑的で、だから前世の記憶というものは、あってもいいけれども、あると考えるには納得いかない部分も多すぎるとそのように考えています。
前世の記憶ってあると思いますか? 私たちは輪廻していると考えますか?
(初出:2006年10月22日)
> 友達は前世の記憶持ってるよ。
前世の記憶を持っているという人がいるのは知っているのですが、問題はその記憶が正しいか検証されているかどうかなのです。私たちは、例えば夢であるとかで、今の人生とは違う(今の人生ではあり得ない)シチュエーションでのできごとや自分自身に出会ったりして、それをもって自分の他生を思ったりしますが、それが果たして事実であるかどうかは検証されるまで宙ぶらりんのままです。
生まれ変わりや死後の世界はロマンティックではありますし、宗教科学を問わずそれに言及するものは過去よりたくさんありますが、厄介なのはそれが検証不能であるということです。いわゆる疑似科学としてしかあり得ず、またカルトになりやすいものでもあり、それを諸手を上げて受け入れるのは、私のスタイルではないです。面白いなあとは思うんですが、前世転生に関しては、私の中の懐疑が晴れることはかつて一度もなかった。残念ながら彼らは私に答えやヒントを与えては呉れないのです。
> 世界サーバー
アカシックレコードみたい! 面白いアイデアだと思います。あるいは、『鏡の国のアリス』に於ける赤のキングの位置づけみたいかも。あの世界のすべては赤のキングが見ている夢のできごとで(とトゥィードルダム、トゥィードルディーはいいます)、いうならばすべての事象は赤のキングをプラットフォームにして成り立っている。世界サーバのプラットフォームかな。
Kさんの考えは、ユングの集合的無意識に近いものがあるように思います。私も理解しているとはいえないのですが、ちょっと調べてみると面白いかも。
人間の肉体は、異なる環境に適応可能な種を継続的に残させるために、わざと壊れるように作ってあるのだろうなと思います。私も知らない間にだいぶん傷んでいて、肺に影があったりと、非常にあれなのですが、こうして古いモデルは舞台から姿を消して、次にニューモデルが現れると、こういう循環モデルが確立しているのは、それだけのメリットがあってのこそなのでしょうね。
> ゲームクリアしないRPGなんて楽しくないと思うんだ〜♪
このさす意味がわかりにくいのであれですが、クリアという概念のそもそも存在しないRPGというのもありますよ。ストーリーがあり、その終端がゴールであるというのは、RPGの本義ではないのです。そうしたRPGに於ける終わりとは、プラットフォームであるゲーム世界の終焉(シナリオの終わりではなく、サービス提供の終わりなど、遊べる環境のなくなることをさしていっています)であるか、プレイヤーによるプレイ停止の決断です。あるいは、プレイヤーの死がゲームの実質的終わりになります。
人生に定められた目的がなく、そのプロセスをこそ我々が生きるということを思えば、用意されたシナリオの終わりがプレイの終わりであるゲームというのは、なんと不完全であろうかと思います。もっともよくできたゲームというのは、その目的がではなく、その過程こそに面白さがあるものなのです。ゆえに、究極的には、シナリオも終端も必要ではありません。
そう、検証不可能であるということが問題をより困難なものにしているんです。私のスタンスは基本中立なので、あるともないとも確定しない状態で、現在得られる情報でもって考えてみれば、前世の記憶の持ち込みに関しては懐疑的にならざるを得ない。けれど、それでも信じたいという人がいることは否定しません。
別に科学と宗教といって線を引きたいわけではないのですが、信じたい人は信じ、信じたくない人は信じないといってしまうと、そのスタンスはより宗教のそれに近くなってしまうのかなというのが感想です。で、私は宗教というのはある種の感性ないし感覚の解放であるが、その反面別のチャンネルを閉じるものであると認識しているので、そういう意味ではこの輪廻というものを信じる考えというのは、ある方向に向かっては開き、別の方向に向かっては閉じている。でもまあ、これは科学においても同じなのかも知れません。
ただ私はできれば両者に対して開かれていたいと思う。それがオカルトに多少なりとも関わりながら、否定せず、また全肯定もしないというスタンスで、そういう立ち位置から輪廻を考えると、どうも疑わしいのではないかとなってしまいます。それこそなんらのブレイクスルー(Cの用語とは違う意味においての)があればええのかもなと思います。
> 終わりがないことはしんどい。
でもその反面、我々は終わりから目を背けがちであったりします。私は基本的にはメメント・モリで生きている人間で、常にその傍らに死を思いながら生きています。人生は死によってすべてが終わるからこそ尊いのだと思っています。常に道半ばにして、目標に達することなく終わるからこそ意義があるのだと思っていて、だから死後の世界や来世に期待を繋ぎたくはない。これは私の基本思想です。我々は死によってこそ報われるのであり、だから、願わくばすべての人に仕合せな死が訪れて欲しいと思っています。
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