実は私は、可能性は誰にでも等しくあるのだよ! だなんて考えていません。間違いなく機会は不均等だし、可能性も人によって違うし、それはその人自身の資質によっても違うし、その人の置かれた環境、状況によっても違います。

ということを前提にして:

可能性について

私は可能性の不均衡を思う反面、可能性にはかぎりはないかも知れないとも思っています。私は昨日、私たちは現状渡しの自分を肯定して、いいところも悪いところも、そんなもんなんだと受け入れて、そこからが始まりだといっていました。けれどこれは状況に甘んぜよということをいいたいわけではなくて、だって状況は変えられるし、それに自分自身が変わることも普通にあるわけで、けどこれらは放っておいたら自然に変わるというものではないと思っています。

もちろん、勝手に変わっていってそれがたまたま自分にとって都合がよかってラッキーということもあるのですが、自分のこれまでを振り返ってきても、まあそういうラッキーはそうそうないわけでして、けれど私はずいぶん変わってきたと思います。よいようにも変わっているし、悪い風にも変わったし、で、その変化というのは、特によい方向に向かっての変化というのは、変わりたいという意思が関わっているなというように思うのです。

唐突ですが、私は今もなお音楽に関してあきらめることができずにいるわけですが、実のところをいうと私自身の資質はあんまり音楽向きとはいえなくて、だから、はっきりいうと、かなり無謀なチャレンジをしています。自分の資質やなんかを冷静に見据えると、音楽をやるよりコンピュータやなんかの方向に進んだほうが圧倒的にスムーズで、生活も安定すると思われるのですが、けれど私はコンピュータに多少は関わりつつも、その道を歩みたいとは思っていません。以前にも少しいったことがありましたが、私の人生はネットワークのケーブルの上にあるのではなくて、ギターの6本の弦上にあるのです。私は音楽の現場に生きて、そこで死ねたらよいなと思っています。

と、こういう風に書くと、ああ、この人はとても音楽が好きだったんだとお思いになるかも知れませんが、実をいうと順風満帆だったことなんて一度もなくて、大学に入って、最初はサクソフォンをやっていたのですが、管楽器というのはどうにも体力を要求するものでして、身体的に恵まれているとはいえない私にはとてもとても大変でした。でも、なんとかしたいなと思ってきて、でも、どうしても思うようにはいかなくて、そこで私は一度音楽をあきらめています。音楽なんてものは、能力のある人間がやればそれは素晴らしいだろうが、私みたいな劣る人間がやってもしかたがないと思って、サクソフォンをあきらめて、音楽に背を向けたのです。音楽もほとんど聴かなくなった時期があって、特にクラシックを聴けなくなって、再び聴くようになったのはギターをはじめてからじゃないかな。

私は、ギターに関しては、そんなに本気で取り組むつもりはなくて、ちょっと歌を歌う伴奏でもできればいいよね、くらいにしか思っていなかったんです。私はそれこそ残りの人生を空しく生きるつもりでいたから、ギターと歌がその空しさをなぐさめる彩りにでもなればいいかななんて思って、けれど私はなににつけても限度を知らない人間だからのめり込んでしまって、結局は再び音楽に戻ってきてしまいました。音楽の場に戻るまで、およそ五六年のブランクがあります。

去年の六月のことですが、練習の帰り、十三駅で豊田勇造という人にお会いしまして、その人と私のもってるギターのケースが同じだったものだから、どちらともなく興味を示して引き寄せられて、同じ電車だったから車中、話をしたのですが、その時に私が昔サクソフォンをやっていたということいって、芽が出ないからあきらめたといったら、本当にそれは芽が出なかったのかと問い掛けられて、そうなんですね、私は本当のところは気付いていたのですが、芽が出ないと思い込むことによって逃げただけだったんですよね。いろいろといいわけして、体力のことにしてもなんにしてもいいわけで、私はあんまりにうまくいかないのを状況、環境のせいにして、それを乗り越えようとはしなかった。だから、私は勇造さんに答えたのですが、もしかしたら乗り越えられたのかも知れません、あきらめずに続けてさえいたら。

私にとってのサクソフォンは、自分から閉ざした可能性の例であると思います。その可能性が成就したかどうかはわかりませんが、少なくとも自分があきらめることで完全に閉ざされたのは確かで、あのあきらめた瞬間に全部の可能性が失われたのですね。

いま私が取り組んでいるギターですが、果たしてこれが私に向いているかといわれれば、サクソフォンよか向いているだろうが、でも自分は天性のギタリストなんてもんじゃないなあということにもしっかり気付いていて、しかもレイトスタートというハンデも背負って、はっきりいうと不安でいっぱいなのですが、それでも音楽に取り組んでいる今の状況は、無為に流してしまった数年よりも充実して、意味深いものであると思っています。不安定なのは確かですが、それでも、私にとって意味のある日々であると思っています。

まとめますと、私にとって有望な可能性はコンピュータの関連ごとに見いだすことができそうだけど、私はこの可能性を受け入れずに、むしろ不毛になりかねない音楽を選んでしまっている。音楽については、一度はあきらめることで可能性を閉ざしてしまったが、今再び可能性を見いだそうとしている途上である。

想像以上に脱線してしまった「可能性について」、続きます。一応、これも「学問について」の一環です。

4月29日に豊田勇造氏のライブがあります。場所は京都の拾得。久しぶりにいこうかね、どうしようかね。

(初出:2006年4月14日)

コメントに対する返事(2006年4月20日)

一度逃げたとしても、それが悔いとして残るほどのものであったら、結局は戻ってきて元の鞘というのがよくあるパターンで、私なんかはまさにその典型です。

進まれる道がどのようなものであるかは漠然としかわかりませんが、それでも自分で納得して選ばれる道であるなら、それがkさんの道であるかと思いますよ。納得しないままの選択をなさったとしても、きっと戻っていらっしゃるんじゃないかという予感がします。

以上、結局は好きなことを選んでしまった私の意見です。まったくもってダメダメの足踏み回想録でしたが、もしこれがお役に立ったのでしたら、本当に書いてよかったと思います。

コメントに対する返事(2006年4月21日)

建築を志していらっしゃるということは日記やらでなんとなく知っておりました。けれど、やっぱり建築デザインの現場というのは「突飛なアイデアばかりが評価されることに疑問を感じ」ざるを得ない場所なのですね。私はそうした知に足のつかないような住宅建築というのは大嫌いで、以前こんなことを書いていました。

実は今日、テレビを見ていたら、建築デザイナーの家というのを映してまして、それが実にひどかった。床が透明アクリル張りで下から丸見えというのもそうなら、風呂も丸見え、便所も食卓のすぐそばで丸見え。ナレーション曰く、この建築デザイナーとやらの作る家は風変わりで云々、一瞥してこいつら馬鹿じゃないかと思いました。作らせた人間、止めなかった人間、そして面白がって持ち上げる人間。どいつもこいつも正気の沙汰ではありません。

建築というのは、特に住宅というものは、住む人間があってはじめて成り立つものです。それをただ真新しさや奇をてらった作りにして見せて、ほらこれが建築芸術でございとやってみせる。そうした、居住者の存在をないがしろにしているものが住宅と名乗るのは実におこがましい。醜悪です。とかくこの世にあって、アーチストぶっている輩ほど始末に負えないものはないとわかります。そうした連中は自意識丸出しに、誰のためにもならないものばかり作って自己満足に浸って有害です。

『室内』40年

そういう奇をてらうばかりで、住宅の住宅たるゆえんをかえりみない場の馬鹿馬鹿しさに嫌気がさされたというのなら、私はkさんの作りたいと思われる建築こそが健全であると思います。

この間、偶然見たNHKの番組で中村好文という建築家が特集されていて、この人こそは件の建築デザイナーの対局にあると感じました。この人の仕事は実に面白いと思えるものでした。住宅という、人と暮らしを包むものにまっすぐ向き合っている人だと感じて、この人に家を造ってもらえたらどんなにか面白いだろうと思ったものでした。

さて、閑話休題です。

私はたとえそれがどのようなものであっても、納得のいかない作って売るばかりの仕事であるとしても、あるいは苦労のつきまとうすぐには芽の出ない険しい状況であったとしても、それはきっとkさんにとっての力になると思います。経験を積むなかで新たな発見もあれば、また蓄積する違和感が新しい力を生み出すこともあろうかと思います。

だから、決して結果がどのようなものになっても、目の前に見えるものに対し、まっすぐに向き合おうという意思を捨てさえしなければ、チャンスは消えないのだと思います。大切なのは、鈍磨しないことと、目の前にチャンスがあらわれたときに踏み出せる勇気だと思います。

人生なんてのは、いつまでたっても納得のいかないものです。だから、逆にいえば、いつだってやり直せるというわけです。今の時期についても、これが最後の決断だと思うんじゃなくて、いつか再びくる決断までの経過点くらいに思われるほうがよろしいかと思います。多分もうちょっと年をとったときに、自分の立ち位置みたいなものがしっくりとわかるんじゃないかと思います。その時のために、良いものも悪いものもたくさん見て、内実や違和感をたくさん蓄えられるのがきっといいのだと思います。

応援してます。

付記

 記事に寄せられたコメントのうち、自分の書いたもののみを転載しました。文中に現れる名前(ハンドル)はイニシャルに置き換えています。


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公開日:2007.03.04
最終更新日:2007.03.04
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