慣れない状態が好きなのかもしらん

私はキーボードに関しては保守的ともいえるユーザーで、フルキーピッチ、フルサイズでないといやだ、それもUS(ANCI)にかぎるという、そういう偏狭なユーザーなのですが、そのわりにキーボードに関する環境を変化させたがる、そういう矛盾があります。

その最たるものは先日のDvorak切り替えですが、これ、もうほとんど完了していて、日本語をストレスなく打てるようになっています。あともうちょっとしたら、ミスタイプもなくなるでしょう。そうなれば、過去の独自ホームポジションによるQwertyよりも能率の上がるはずです。

さて、この新しい排列に慣れるまでの状況を観察してきて、どうも自分はこういうもどかしい状況が好きなのかも知れないなと思ったのです。この感触は、以前Emacs(Meadow)を導入して、あの独特のキーバインドに四苦八苦したときにも味わっていて、そして無刻印のDas Keyboardを使いはじめたときも、特に数字ですね、思うように打てないというもどかしさを感じていました。そしてDvorak、そしてまた今新しいAppleキーボード、それぞれに過去の慣れた環境とは違って、もどかしいんです。けど、私は安定してきたと思ったら、あえてそのもどかしさを導入しようとする、そんな性格を持っているようなのですね。

多分、私はそのもどかしさってやつが好きなのです。自分のやっていること、やろうとしていることが、透明さを失って、意識せずにはおられなくなるような、そんな違和感あふれる状態が好きなんだと思います。

なんでかっていうと、やっぱり自分という、感じ、思う存在を、最大限に感じ、思うことができるからなんじゃないかと思います。そう、私は私というものを、なによりも感じていたいのだと思います。

(初出:2007年11月6日)


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公開日:2008.03.17
最終更新日:2008.03.17
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