今日のNHKできれる大人特集がされてました。鬱に陥っている人の一部に、きれる傾向を持つケースが見受けられるという話で、これ聞いて、ああ、私は今このボーダーにあると改めて実感しました。
私と付き合いある人に、私という人間がどのような受け止められ方されているか、それはちょっとわかりませんが、実は私は鬱傾向の極めて強い人格を持っています。同様に躁の傾向も持つのですが、躁になると体が持たないという理由で、極力鬱方向に抑えるようにしています。と、こう簡単にいえるくらいですから、もちろん鬱病を発症しているのではなく、鬱傾向にあるという程度のこと。ただ、まれにコントロールを失って、深く落ちることがあります。実はこの夏はやばかった。
そんな自分だから、きれる人の構造はちょっとわかる気がする、というか実体験として理解できる。私はまだ暴発させるには至ってないけれど、危ないことがまれにあって、そしてこれは起こってしまえば押さえられないことはわかってるから、そういう状況を作らないように気をつけています。他人に対するモラルの許容点を高く維持し、さらにはそれらは自分にとってどうでもいいことと認識する。深く関わろうとせず、心理的に距離を置くようつとめている。他者あるいは社会と距離を置くことで、自分自身及び他者との関係を守ろうとしているのです。
今日の特集、クローズアップ現代では、コメンテータ(春風亭小朝と斉藤孝)が、人間と深く関わる、実際の人の温かさに触れることが大切なんじゃないかといっていて、確かにそれは正論で、その通りなのかも知れないけれど、私のような人間にはそれは非常に難しいと思われて、深く知りあえば離れたく思い、離れれば寂しく人を求めるという難儀な性格。例えばこの数日、エンドロールが見られなくなったこと(わからん人には申し訳ないね)が呼び水となって、その方面の話がちらほらと思い出されているわけですが、そうした最中、私は関わりたい、加わりたいと思いながら、忘れ去られることを、一顧だにされないことを願っている。なんでかわからない、わからないけれどそう思うのだから仕方がない。そしてこういう私には、人の温かさというのは、望みながらも得にくいものなのです。
私には私の望むところがわからず、昔に触れた文章を少し思い出します:
社会との平衡を保とうとするあまり、消極的で引っ込み思案になり、社会の重圧に耐え切れず、同時に社会生活から孤立し、受け身な立場に追いやられる人は、神経症と呼ばれている。神経症の人は、自己の欲求に気づかないので、自己の欲求を満たすことはできない。また自己と外界との区別がうまくできず、社会を必要以上に過大視し、自己を過小評価する傾向がある。
パールズ,フレデリック・S『ゲシュタルト療法 — その理論と実際』倉戸ヨシヤ監訳 (ナカニシヤ出版,1990年),41頁。
多分典型例なんでしょうね。などと思いながら、今回の文章をまとめると、次のようになるかと思います:
コメンテータは正論ばかりいうけど、その通りにできるものなら、鬱なんかになってないよ。わかっててできないんだよ、わかってるのにできないからさらに落ち込むんじゃないか。
今日のクローズアップ現代、NHKは人選を誤ったと思います。
(初出:2007年9月3日)