大学院に入った年、ドイツ語にまったく手が出ないようでは先が思いやられると、学部の一回生諸君に交じってドイツ語を基礎から勉強してみることにした。これはその時の、苦い思い出だ。
ドイツ語を学ぶに際して、僕は一回生諸君よりもずっと有利だった。今まで英語しかやっていなかった彼らに較べ、フランス語、イタリア語を、駄目ながらもかじっていた僕は、人称と数によってことごとく変化する動詞にも性を持つ名詞群にも驚かなかったし、さしあたって知識だけは持っていた格変化にも落ち着いて対処することが出来た。ややこしい枠構造にもなんとか慣れて、自然と僕は一部の生徒にとってチューターして使われるようになっていた。
先生はそんな僕の行動に、「教えると為にならん」と否定的だったが、僕はその先生の言葉に、結局は従わなかった。
その時僕は思っていた。わからないことをわからないままに放っておくのではなくて、引っ掛かっているところにさえ気付けば、きっと彼女らは前に進めるはずだと。信念にも似た思いだった。そう思うからこそ、決して答えは教えず、逆に一から問いかけ、彼、彼女らがなにが問題なのかを気付き、どこに自分が引っ掛かっているかを明らかに出来るよう、焦らずゆっくりと対処したつもりだった。
つもりだったんだ。
僕はその講義にガスト(ゲストのこと)のつもりで参加していたのだったが、先生は僕の定位置を一番最初の席に決めて、それこそ容赦も遠慮会釈もなく、他の学生以上に厳しく扱ってくれた。正式には履修していなかったので単位は出ないのだが、それでも先生は、僕が今やっている勉強のための手段としてドイツ語を学びにきていることを理解してくださっており、それだけに厳しくしてくださったことを感謝している。
先生の口癖は、学問のためには「話せる、読める」だけでは不足「話せる、読める、理解できる」でなければならない、というものだった。この言葉は、僕の語学に対する偏愛における、座右の銘となっている。
だが、それでも先生のあのひとことだけは、どうしても納得がいかなかったんだ。
転機はその年度末に、思いがけないかたちで訪れた。僕の親切でこまごま教えていた学生たちが……ことごとく単位を落としたのだった。
ああ、先生はすべて正しかった。先生のあの言葉は、長い教授人生のなかで培われてきたポリシー、真理だったのだ。
ドイツ語1と2のうちのどちらかだけならまだしも、両方ともをきれいに落とした学生がいたのは、ことさらにショックだった。
僕は彼、彼女らに心の中で詫びた。すまない、僕が教えたりなんかしたばかりに……とはいえ、本人が悪いんだけどさ。
だから、もう僕は決して教えたりはしない。今では、「教えると為にならん」も僕のポリシーだ。
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