「クリクリのいた夏」


原題:Les enfants du marais
監督:Jean Becker
配給:シネマパリジャン


 帰りたい場所、時間があるというのは人間にとっていいことだが、そう強く思い涙まで流させるのは、今が不幸だからだろうか。

 「クリクリのいた夏」(原題は「沼の子供たち」)の舞台は第一次世界大戦と第二次大戦の間、フランスの田舎町での出来事だ。町から外れた沼地で、貧乏ながらも日々を自由と人情味あふれる人間関係に包まれ生きている主人公たち。町で裕福な暮らしを送っているアメデはそんな彼らの生活に魅かれ、かつて沼に暮らした金持ちのペペは、彼らを見て昔を懐かしんでいる。
 そんな彼らの生活のなんと美しいことだろう。と彼らから遠く離れた地平から見る僕たちは思ってしまう。だが、主人公ガリスはそんな暮らしから抜け出したいという思いに、取りつかれては離れ取りつかれては離れを、かれこれ十二年も繰り返している。だがそれでも、僕たちは思ってしまう。彼らの暮らす、貧しくとも人の触れ合いがあり、自由があり、まさに生きることが輝かしくあれる時間、場所に、アメデやペペがおそらく感じたように、あこがれや人間本来の姿を見出したいと。

 僕が子どものころ、うちの近くには田んぼがあって、稲が刈り取られた冬は格好の遊び場だった。少し自転車で走ると池があって、そこでは蛙がザリガニが、魚が取れた。夏には池に、冬には枯れ田に、それこそ自由を謳歌せんとばかりに繰り出し遊んだ。

 いま、自分を省みて、あの頃のような時間が一滴も残っていないことに顔をしかめる。自分を振り返ろうとして、直視に耐ええず、目を伏せてしまう。
 過去のあの時間、あの土地があんなにも懐かしく思えるのはなぜだろう。そんなにも今が辛いというのだろうか。

 ガリスは、破天荒でしかし憎めない隣人リトンを心配するあまり、沼を離れることが出来ない。リトンのやることなすことに振り回されるたびに愛想を尽かし、今度こそ沼を出て行くと思うが、それでもリトンの人間の奥にある善さに触れ、友情のために沼から出ていけなくなってしまう。

 みんなそうなんじゃないだろうか。今という時間を、心の底から愛することは出来るものだろうか。今という時間、状態を愛するあまり他を求めない人間は、裏返せば愛のあまりなにも見えなくなってしまっている、滑稽で哀れな若者だ。
 じゃあ、今を大切に思いながらも決別の意志を胸底に隠している我々は、一体なにを求めるというのか。求めるものは二つ、今を捨て去ってこそ得られるだろう輝かしい未来と、かつて確かにあったと思える輝かしい過去、この二つだ。

 「クリクリのいた夏」の最後で流した涙は、過去と未来、一体どちらのためだったのだろうか。あまりに美しく描かれたガリスやリトン、アメデ、ペペの確かに愉しみとともにあった過去が遠くに去ったことに流した涙が三分の一、クリクリが信じるといったガリスの沼を去った後の、不確定ゆえに信じ進むことの出来る未来の一像に流したものが三分の一。
 残りの三分の一は、かつて美しい未来として見、いつか美しい過去として思い返すことが出来るかもしれない、現在という時間に流したものであると信じたい。

 現在という時間の愛におぼれるのもいいではないか。とかく愛というものはあまりに近くありすぎると憎しみさえ覚え、遠くはなれてみて始めてその美しかったことに気付く。
 ともに愉しみと喜びを、輝かしい未来と過去と、現在のために。


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公開日:2000.10.04
最終更新日:2001.09.02
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