発音が悪いと、ことごとく理解してくれないのがフランス語である。理解してくれないどころではなく、まず聞き取ってくれるところまでもいかない。けれど、なぜこうまでまったくといっていいほど通じなくなってしまうのだろうか。
外国人が話す怪しい発音の日本語でも、一般的に我々はなんとか聞き取り理解しようと努める。確かに聞き取りに限界はあるとしても、少しの発音の間違いや不明瞭さくらいならなんとか埋め合わせて聞き取り、理解してしまう。これは我々が日本語を母語として習得してるがゆえに出来ることであり、それならばフランス語を母語として習得している彼らは、僕の話す不明瞭なフランス語を理解しようと努めれば、それが可能になるはずだと考えてしまう。
だが、それはとんでもない誤り、甘えであった。
その再びの気付きは、僕の身の回りに最近飛び込んできたフランス語初学者によってもたらされたものだ。フランス語を学び始めの彼女は、僕のフランス語を勉強していることを知って、普段の会話の中にフランス語で話しかけてくる。
そのこと自体はかまわない。下手な日本人同士がやり取りするフランス語会話に加わる気は無かったが、彼女のフランス語による発話を聞いてコメントを加えるくらいには付き合っていた。だが、彼女がなにをいっているかがまったくわからないことが往々にあり、これにはおおいに困らされた。
短大の一回生からフランス語を勉強し始めて、途中中断もあったものの、今年で丸八年になる。到底自在にとはいかないが、なんとか聞き取りも出来るようになりはじめ、耳に入るフランス語が、わからないながらも、文節的に捕えられるようになってはいるのだ。
簡単なフランス語なら聞き取って、理解することも出来るようになっているのに、しかしそれでも彼女の初歩のフランス語を理解できないのはなぜなのだろうか。
それは聞き取れないためである。彼女の発音は恐ろしくカタカナの発音で、話しかける敬称の vous が vous に聞こえない。子音が v でないうえに母音は ou になっていないのだ。日本語のカタカナで書く、ブ、でしかない彼女の vous を聞いて、「あなたが(は)」という意味は浮かび上がってこない。一事が万事この調子で、結局日本語での註釈を求めざるを得ない。伝えたい意味を聞いてはじめて、彼女のフランス語を推測するのが関の山だ。
言葉というものはまさに音のものだと思う。文字で書かれたとしても、それを見る我々は音を必ずどこかに感じながら読んでいる。言葉を受け取るということは、その意味と結びつけられた「音」が届けられるのだ。それゆえ、正しき音のない場に意味は存在しえない。
昔の話だ。フランス人教員との雑談のなかで、彼がどれだけ自国の作曲家を知っているかと、名を列挙して聞いたことがある。
クープラン、知ってる。プーランク、知ってる。ドビュッシー、もちろん知ってる。ラヴェル、知らない。?
ジョスカン・デ・プレ、知ってる。クレマン・ジャヌカン、知ってる。ラヴェル、知らない。??
ブレーズ、知ってる。ヴァレーズ、知ってる。イオニザシオン、いい曲(ウー、とサイレンの真似)。メシアン、知ってる。で、なんでラヴェルを知らない???
問題は僕の発音だった。確かに彼は Lavel という作曲家を知らない。彼の知っている作曲家は Ravel だ。
五年前のこの事件は、我々が混同してしまう l と r が、厳然と異なる音として存在しているという事実を改めて浮き彫りにした。このことさえ理解し、二つの違いを、まったく違うものとして受け止められさえすれば、自分の伝えたいことはきっと伝わるということが明らかになった、目の開くような、素晴らしい出来事だった。
このことを、フランス語初学者を前に再び思った。わかってくれるだろう、わからないのはフランス人の聞き取ろうとする努力が足らんからだ、と思うのは恐ろしい誤解と甘えである。
僕は、五年前のあの日以来、フランス語の一語一句、一シラブルを自分に出来るかぎり、意味あるフランス語として捕え、発音できることを目指し、今なお目下勉強中の身である。
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