『英語とわたし』
岩波新書編集部編
岩波新書,2000年。
情報化が進むなかで、国際的な視野をもつ人材が求められるようになって久しい。だが、この国においての国際人とは英語話者という意味合いが強く、コンプレックスはいやますばかり。
そう、僕は英語が出来ません。
だがそれは僕だけではなく、日本人の多くが英語には悩まされている。英語に関する本は数多く出版され、よく売れている。文法に縛られない英語、道具としての英語。われわれは英語に対して目の色を変え、翻弄されている。
『英語とわたし』に関しても同様の文脈から理解することができるだろう。言葉としての正しさよりも内容が大切。まず聴き、そして話すこと。言われていることの多くは、今まで聞いてきたことの延長線上にある。だがこの本がただの英語本にとどまらないのは、エッセイを寄せた人たちの「わたし」の部分が生きているからだろう。
政治家や研究者、マジシャンも詩人も、英語に関係している人が「わたし」として語りかける内容は一様ではない。書物として編まれた以上ひとつの視座を持つには持つが、細部に分け入ればまったく対立し否定しあう言説もあり、それが気持ちいい。中でも、一元的な英語(米語)絶対主義を難じ、異なった文化背景を持つ言葉を互いに認めあう、多元的世界観が多くの話者から提示されていたこと。これは、なんと心を軽くしてくれることだろう。
身近な英語学習者が言う。これからは英語ではなく米語だと。だが、その米語を習う先になにを求めるのか。必要に迫られてマスターしなければならない人もいる。けれどそうではない者の多くは、国際人になりたくて、すなわち米語人化が目的ではないのか。
残念ながら僕は日本人で、生涯この文化と言語を引き摺っていく。英語、仏語をいくら学ぼうともこれは変わらない。米語人である前に、一人の粗野な人間。決して無背景的には在りえないのだ。
ゆえに英語という手段を身に付ける意味があるのではないか、そう思う。
評点:3
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