「雨の降る日はそばにいて」,『ミルキーウェイ』所収
太刀掛秀子
(集英社文庫)集英社,1998年。
「さよならだけが人生ならば、人生なんかいりません」と歌ったのは寺山修司だが、悲しいことに人生に別れはついて回ってくる。それは単なる離別もあれば、死によってもたらされるものもあって、ならば、もし自分の愛する人と死に別れたとしたら、残された気持ちはどのように生きるというのだろうか。
いずれ長くはない命であることを隠して去った思い人を、恨もうとすることで忘れようとしたのが、この作品のヒロイン、みちるであった。柴ちゃんと出会って、彼の優しさや笑顔にひかれていったみちる。彼とともに歌った歌を通して、人を好きになることとその意味を知っていった彼女だったが、残酷な運命によって彼を失ったことが彼女の心に黒く影を落としてしまう。だが、その別れを越え、再び彼の思い出と出会う彼女の心の動きは、大きく揺れ動く波のように豊かで、心奥にまで達する情感にあふれている。数えればほんのわずかなページ数でしかないのにそれは、物理的な制約を超えて、永遠とも感じられる心の旅路を描き出してしまった。
愛する人との別れを通じ語られたのは、出会いの妙味に尽きるだろう。人は一度しか生きないし、すべての瞬間はたった一度しかない。そのときどきにかけがえのない出会いを感じ取り、出会ったこととごとを大切にすくいとっていくことが出来たら。僕たちはもっと多くのものをそこから得て、美しいものも、憎しみも悲しみも、辛さも苦さもともに抱いて歩いていける。
ゆめゆめ忘れるべきではない。人生に別れはつきものであるが、別れがすべてなのではない。別れを思いつつ、出会いそして愛したという事実と、そこまでに至る過程に振り絞られる勇気、前向きな心。それらが人生を素晴らしいものにする。一瞬一瞬に心を砕き、思いを結び合わせていく。このようにして生きたという思い出こそが、人生の限りを越えて、永遠に存える真実を描くのなら。人生は常に、人の隣に在ることだろう。
評点:4+
引用は、寺山修司『幸福が遠すぎたら』より
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