彼岸過迄

そこに解き放たれてはじめて見える答えが

『彼岸過迄』
夏目漱石
(岩波文庫)岩波書店,1990年。


 漱石の書く、どこか優柔不断で内向きな人物の中で、特に共感的にあれるのが本作に現れる須永だ。学問を修めながらも、それをもって我が身を世に問うことをしない、常に自身を疑ってかかっているような男である。自身のなかにわずかに息づく感情を、冷徹な考察によって弁別し退けるような男である。胸よりも頭の勝った、日和、日だまりに暮らすことを好む彼を見るに、自分は非常な共感を覚えるのだ。親の残した財で、日を穏やかに暮らす彼は、長くモラトリアムの時代を過ごしている自分――そして同様の士――にとって、決して他人と見えないだろう。彼は、遠く明治の人でありながら、われわれの同時代人ともいい得る、多層多面の人である。

 須永の不幸は、理性に傾きすぎそこから自由にありえないところにある。活動よりも先に、頭が答えを用意している。その推理推考の確かなゆえに彼は自ら歩みを止めて、自身のうちに潜り込むのだ。決して現状の打破のために働かず、現実から目を背けるかのような素振りさえ見せる彼は、自己否定感情と自尊感情を合わせ呑んだ、われわれの代表にほかならない。

 だが、須永は彼自身が気付かぬ自分を、自身のなかに隠していた。彼の母の望む従妹千代子との結婚を退けながら、いざ千代子を高木の前に失わんとしたとき、誰に遣っても惜しくもないはずの千代子に対し強く心を乱した。霞を食って暮らす自分ばかりでないと知って彼は、焦りをロマン主義に転ずることもできず、いよいよ現実を遠ざけることで自分の誇りを保とうとする。その時発する千代子と須永の確執は一瞬の火花だ。続く松本の話がそれを受け、胸の奥に沈む心の深さと澱みを照らした。淡々とした語りの中に、頭の作用により角々しく区切られた閉じた世界から抜け出て、人の人として生きようとし始める様がありありと見える。窒息間際だった心に風を入れた須永の先は知れないが、決して悪く進むことはないと僕には思える。


評点:4+


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公開日:2002.05.22
最終更新日:2002.05.22
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