閉鎖都市巴里

この巴里は、テクストが主な媒体であるWWW的世界に似ている

『閉鎖都市巴里』上下巻
川上稔
(電撃文庫)メディアワークス,1999-2000年。


 川上稔の都市シリーズは、都市ごとに強烈に異なる性質とルールが与えられており、それぞれの特色に応じた実験的表現が用いられていて面白い。序盤三作までは設定こそ独特であれど、表現の仕方はまだ普通であった。世界観に応じた表現の試みは、第四作の大阪から意識される。シリーズ第五作目にあたる巴里においても、実験的手法は健在。だが残念ながら、その試みは言語都市としての巴里を描き出すことはできなかった。手口としては凡庸で、空回りしている感が強い。

 文字情報によって構築される都市、巴里においては、記述者の観察と記述が世界を支えている。書かれなかったことは存在しない――このルールに従い、彼らは記述することで自身を世界に固定する。しかし、事実がその記述とは関係なく厳然と存在するところがまずかった。これじゃ、われわれの現実と変わらない。人間は認識と観察を繰り返しながら、自己と世界を把握している。ただそれを曖昧に言語化するにとどめ、記述せずにいるだけだ。

 だが、巴里での試みがまったく無意味だったとは思わない。巴里は日記、手紙、電文、新聞といった文書のパッチワークの体裁を持つため、常に誰かの主観が記述の中心にある。また加えて記述者の認識と状況の確認が意識的に描出されることで、世界への対峙に臨場感を与えつつ、登場人物の内心、葛藤、気付きを効果的な位置にそのつど配置することを可能とさせた。作者の意図こそ成就しなかったが、物語方のひとつの可能性の実験として、また無意識におこなわれる多元的な思考の形式を明瞭化させたという意味においても、意義あるものだった、それがあまりに無粋であったとしても。

 この本には、マレットの要領を得ないレポートがもれなくついてくる。決して長いものではないのに、くどくつまらなく辟易させるそれ。それでも無理して読んでしまったものだが―― 皆さんには、適当に端折りながら読むことをお勧めする。


評点:4-


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公開日:2002.06.19
最終更新日:2002.08.10
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