百年分を一時間で

一読で何年分の知を得られることだろう

『百年分を一時間で』
山本夏彦
(文春新書)文藝春秋,2000年。


 『誰か「戦前」を知らないか』の続刊である、というと、少し語弊がある。そもそもこの問答は、氏の主宰する雑誌『室内』に連載されていたものである。それが新書にまとめられた、そして続編。軽快さ、洒落た語り口は変わらずに、明治は漱石の印税から現代は情報技術革命まで、幅広く語られる口はやはり名調子で、読んでるだけで嬉しくなれる。扱う事象は幅広く、とはいっても、現代の最先端の事柄に期待しちゃいけない。あくまでも軸足は昔に置かれているのであって、その過去の積み重ねから現代がすっぱと斬られるわけだ。いわば、温故知新的に今をみている。軽妙に、そして批判的に。

 この、軽妙で批判的というのが本書の持ち味であるのだが、実は今の我々に求められているのは、こういった姿勢なのではなかろうか。なにか大きな物事について考えようとするとき、どうしても真面目な面構えで肩肘張っていないといけないなんて思っていたりするけれど、そんなの嘘だ。小説からでも落語からでも映画からでも、注意深い観察さえあればいろんなことが知れるのであって、そうして得た知識の網ですくえば、現代の事象もきっと掴める。問題点も見えれば、理解のよすがも得られるはずだ。結局、なんら変わるところのない人間の作った社会のことだ。昔も今もどれほどの違いがあろう。なら、昔を知れば今を知れるのも当然。山本夏彦氏は、まさにそうした知の遊びの実践者であられた。広範な知識でもって、偏った今を斬って捨てる。知らぬ見えぬものがあれば、あえて飛び込まんとする氏の姿勢に学ぶところは多い。人生の傍観者などといいながら、結構いろいろ楽しんでらしたのではないだろうか。僕は、おんなじ人生ならば、そういう生き方をするが好いと思っている。

 だから、あえて、僕は彼のことを惜しんでいる。若いものが老いて逝くものを惜しむばかりでは情けない向きもあろうが、それでも僕は惜しくてならないのである。


評点:4+


耳にするもの目にするもの、動かざるして動かしむるものへ トップページに戻る

公開日:2002.10.28
最終更新日:2002.10.28
webmaster@kototone.jp
Creative Commons License
こととねは、クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(表示 - 継承 2.1 日本)の下でライセンスされています。