『今夜、すべてのバーで』
中島らも
講談社,1991年。
講談社文庫,1994年。
酒の前に、人はあまりにも無力だ。少しのつもりで飲んで、結局は深酒を過ごしてしまう。憂さ晴らしならよけいだ。昏倒するまで喰らってしまう。ほろ酔いで止めておくなんて、どだい無理な話なのだ。千鳥足の帰路、翌日の宿酔に反省はしても、その反省が後につながることはない。一口飲めば終わり。酔えば判断力が弱まるんだから、当たり前といえば当たり前。やめようやめようと思いながらやめられないのが酒なら、人生は酒の泥沼だ。
アル中になりやすい性格があるという。傲慢でありながら自尊感情が弱く、完璧主義ゆえに自分を許すことが出来ない。誰もが自分中心に生きたいと思いながらままならない昨今、こういう人格は増えているように思える。
主人公、小島容はまさにこの性格を体現したのだろう。物語は、彼がアル中で病院に収容されるところから始まる。紆余曲折の末、酒浸りの生活から脱しながらも、一歩の間違いで酒の泥沼に帰ってしまう彼は、あまりにも悲しく人間だ。彼にとって酒が現実から離れる手段であるかぎり、酒の魔力は彼を離さないに違いない。
すべては、なにかに依存したいという心の現れだという。自身の力によって現状を打破しえない時、人は現実に向かうあるいは背くために、酒やドラッグ、何かに依存することを求めてしまう。何にも依存せずに生きられるほど強いのなら問題は解決だろうが、人はそんなにも強くあれるだろうか。
なににも依存しない生き方なんてあるとは思えない。小島のラストの台詞、「きみがおれのアルコールだ」が示すように、彼は対象をすり替えただけで、未だ依存者であることに変わりないのだ。ならば巷に満ちるわれわれの、なにかに身を預けて自分の足で立つことを忘れてしまった姿は、とどのつまり小島容と同じなのだ。仕事に恋人に子どもに、ひいては酒に、よっかかって生きているかぎり、われわれは皆依存者。この小説中に、自己の姿を見つけるがよいだろう。
評点:4
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