「セプテンバー・ソング」
「珈琲ブレイク」,『田渕由美子作品集2 こさあじゅ』所収
田渕由美子
(集英社文庫)集英社,1996年。
自分の感情に対して不器用というのは、自分の中にあるなにかを大切にしたいという思いの現れなのではないだろうか。目に見えない、すぐにでも吹き消せるような些細な心の動きだけれど、その小さな響きにそっと耳をすませて、消えないようにと育んでいけるのは並大抵のことではない。ただ、世間でこれが受け容れられるかといえば、常にそうではないのが切ないところだ。
いいかげん、そんな思いをなぞ忘れてしまえばいいのに。けれど、それが出来ないからこそ不器用なのだ。ましてそれを壊したくないとなれば、怖れや不安はいうまでもなく。踏み出す勇気を持てず見送ってしまった昔の思いに後ろ髪を引かれ、あきらめきれないままに年月ばかり重ねてしまう。これが田渕由美子作品に通底する低声部そして色調だ。
思いの丈を伝えられないまま、自分を見止めてくれる男性を待つ構図は他にも多々あれど、田渕由美子のそれは独特で、はしゃぎやうわつきよりも、しめやかさがむしろ目立っている。八十年代にはいって特にその傾向は色濃く、しっとりとした叙情が心地よい。これらは現在進行中のではない、昔の思いを懐かしむといった、ほどよい距離感が生む淡い色調なのだろう。
「セプテンバー・ソング」と「珈琲ブレイク」は二本立てになっている。六年前の思いにとらわれる林花の物語。前者は六年前に、後者は今の時間に焦点が当てられ、それぞれ異なった温度が感じられる。おおむね昔語りの前者が叙情的でほのかな暖かみというなら、後者は人の体温を恋する肌寒さというのだろうか。わかっているのにあきらめられない心に吹きよせる寂寥感が、乾いた冬景色に似合って美しかった。
思いを引き寄せるためにも、引き寄せきれなかった思いを忘れるためにも、まず一歩目を踏み出すということが大切なのだが、そこまで思いきれないのが八十年代の空気だった。けれど時代に取り残された人にとって、この空気は今もなお優しい。
評点:4
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