『快楽主義の哲学』
澁澤龍彦
文春文庫,1996年。
人生に目的はない。故に自らの快楽に殉ぜよ。こう恫喝する澁澤龍彦の言葉は、時を経てなお、現在に対して厳しく響きます。むしろ現在は、この言葉の発された六十年代往時に比べてなお悪化している。手のつけられないほどに自らの人生を生きない生がまかり通っているかのようです。
今以上に社会的規範は旧態依然とし、モラルのモラルとして息づいていた六十年代。対し現在は、誰しもが自分のやりたいように生き、自らの欲求の充足を目指して生きているかのように見える時代です。物質は満ちあふれ、不況下とは思えないほどに高度消費社会は絢爛に息巻いている。不況による停滞感と将来の見えにくさは、より一層に刹那的快楽主義を広める契機であるかのようです。
このような状況を目の当たりにしながら、なぜ快楽主義において六十年代に劣るというのでしょうか。
六十年代には、他人や社会の価値観に従って生きるというお仕着せの人生の根底に、いまだ潰えぬ自分の人生への強い志向が残されていました。むしろ社会の押し付けが強いだけに、それに抗する生命力も強くあらねばならない。自分の人生を希求する思いは、たくましくさえ育ったのです。
ところが現在です。モラルは褪せ、社会の押し付けは無言にあれども、それに抗するスタイルは先人の残したものを踏襲するだけ。そこには社会への拮抗もなく、ましてや自身の生きる欲求もなく、安定を求める偽物の能動性があるだけです。与えられた反攻のスタイルを与えられるままに享受し、安定のうちに消費をむさぼるだけに、病根は深いとさえいえるでしょう。自暴自棄に見える行動でさえ、逃げ道を確保し安全を見越した、薄汚い見せかけの疾走でしかありません。
これは逆説です。自身が欲する快楽を発掘せねばならないほどに、われわれは生において弱ってしまいました。故にこそ、あえて今再び、自らの快楽を目的に生きよとのスローガンを、掲げねばならないのです。
評点:4-
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