『屈折リーベ』
西川魯介
(JETS COMICS)白泉社,2001年。
タイトルからして秀逸ではないか。それが示すところは、屈折したリーベ(愛)であるのか、屈折させるものへのリーベであるのか。読み進むにつれ、それは次第に知れてくる。
大滝篠奈に言い寄る秋保宣利の理由はといえば、篠奈がメガネっ娘であるからときた。あからさまなこの告白に篠奈はいったん引いてしまうものの、いずれ彼の情熱にほだされてゆく。恋なぞ柄ではないと言い切っていた篠奈が、恋に臨み変わっていく様は、青年向けの漫画にしては細やかで、むしろこのヒロインにこそ共感できた。
だが、通底するテーマとその方向性には、はっきりいって疑問しか残らない。
秋保少年の眼鏡に対する偏愛はたいしたものだった。男にとって都合の良い幻想としてのメガネっ娘の否定と、世間に流布する眼鏡に対する謂れなき偏見の唾棄。多少の異同こそありはすれ、おおむね賛同できるものだ。自分の理想とする女性を求めた末、出会ったのが篠奈だった。だが彼らにとって、秋保の眼鏡に対する愛が障害となる。
秋保は、眼鏡を掛けているから篠奈を愛するのか、それとも眼鏡なぞ関係なしに篠奈という人を愛するのか。この、愛の発端に生ずる疑い。少女は自身にこだわり、少年は眼鏡に拘った。矛盾する二人のこだわりが共存しうる場を、いかに見出すことが出来るか。
これこそがドラマの真骨頂であるはずなのに、秋保の日和見的態度による逃げにより、劇は劇であることをやめてしまう。「好きになった人が「たまたまメガネだった」だけ」というありきたりな結論は、劇的契機に引導を渡して、作品を作品たらしめなかった。対立するものをすべて一緒くたにして、新たなステージに到る動力こそが劇。結局止揚することの適わなかったこれは、二流品以下である。
屈折させるもの――眼鏡への愛から始まった話は、その愛が屈折したものであったことを明らかにして終息した。なら、いっそはじめから語られないほうがましだった。
評点:3-
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