無境界家族

精神が自由である人の見本

『無境界家族』
森巣博
(集英社文庫)集英社,2002年。


 ああ、自分の世界は狭い。そう思ったのだった。

 博奕打ちの著者は、学者の妻とオーストラリアに暮らしている。息子は飛び級で大学に進学。父子は母親を単身在任させてシドニーに出てきて、後はもうなだれる如き展開が読ませる。彼らは国境やなんかをまったく意に介さず、まさに無境界家族。息子がアメリカに単身渡ったことで、家族は一見離れ離れになってしまったが、だがしっかりとしたつながりが感じられるのはなぜだろう。ひとつの家に執着しながら、むしろ希薄な関係にとどまる家族も世の中にはあるというのに。

 読むごとに目が開いた。自由を標榜しながら、実際には目を半分つむって生活している自分のなんと意気地のないことか。腰抜け、憶病者。腹を括る覚悟がないのが一番悪い。判断に潔さもない。多様な意見に迷う私は、自分の見る目に自信がないのだ。一貫性なく、昨日あちらの意見にうなづいたと思えば今日はこちら。それでは駄目だ。

 情けないことに、私はアリバイ作りに必死なのだ。すべての意見に見るべきところがあるといって日和見している。だがこの著者は違う。まっすぐに簡潔に、物事を奥まで見通している。特にその鋭さはナショナリズムに対して発揮されて、――ナショナリズム! 私の大嫌いな言葉だ。くだらないでっち上げの枠組みに取り込まれてたまるものかと、日々くさくさしているだけの私は、著者の一言一句に溜飲を下げたね。いや、他人のふんどしで相撲を取るようではいけない。自ら打って出るくらいでなければならんのじゃないだろうか。腹を括る。そうしてはじめて、自分のよってたつ視座ができると、この著者を見て思ったのである。

 考える位置を見付けるということは意固地や頑固とは異なる。人はあらゆることに影響され、変化しながら生きている。そうした根本的なことを、著者は理解している。ゆえに彼の思考はしなやかで強く、論は鮮やかで平易だ。素晴らしいの一言に尽きる。


評点:4


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公開日:2004.09.05
最終更新日:2004.09.05
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